経済

WHO改革とパンデミック条約――グローバル保健安全保障の再構築と財政的課題

2025年5月に採択されたWHOパンデミック協定、米国のWHO脱退、CEPIやGAVIの資金不足、mRNA技術移転の進捗など、COVID-19後の世界的感染症対策体制の再構築をめぐる政治・財政・科学的課題を包括的に分析する。

Newscoda 編集部
青いサージカルマスクを着用した女性のクローズアップ写真

はじめに

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックは、2020年から2023年にかけて700万人超の確認死者を生み、7,000万人超を極度の貧困に陥れたとされる。IMFの推計によれば、2020年から2024年にかけての経済損失は約13兆8,000億ドルに上るとされており、感染症対策への事前投資が不十分であったコストを改めて浮き彫りにした [4]。世界保健機関(WHO)は2025年5月20日、第78回世界保健総会においてパンデミック協定を採択した [1]。約3年間にわたる交渉を経た法的拘束力を持つこの枠組みは、次のパンデミックに向けた国際協調体制の中核を担うと位置付けられている。

しかし、その採択から間もなく、制度設計と資金調達をめぐる根本的な緊張が表面化した。トランプ米政権は2025年1月20日に大統領令14155号に署名し、所定の1年通知期間を経て2026年1月22日にWHOからの脱退を完了した [2][3]。従来WHO予算の12〜15%を担ってきた米国の拠出が途絶えた結果、WHOは2025年1〜6月に全職員の22%にあたる約3,000のポストを削減したとされる。パンデミック対策の「グローバル公共財」としての整備が急務とされる中、国際社会が直面する制度的・財政的課題は複層的かつ深刻なものとなっている。

パンデミック協定の内容と意義

協定採択の経緯と主要条項

WHOパンデミック協定は2021年末から始まった政府間交渉会議(INB)での審議を経て、2025年5月に世界保健総会で採択された [1][8]。COVID-19対応における不平等と制度的欠陥——ワクチンの偏在、早期警告システムの不備、医療資材のサプライチェーン断絶——を踏まえ、法的拘束力ある国際枠組みとして設計された。協定の主要な柱は三つとされる。第一に、パンデミック予防・備え・対応(PPR)の強化であり、加盟国のサーベイランス能力・医療従事者育成・検査体制への投資義務を含む。第二に、ワクチン・診断薬・治療薬(VDT)へのエクイタブル・アクセスを確保するための「グローバル・サプライチェーン・ロジスティクス・ネットワーク」の設置である。第三に、財政調整メカニズムの設立であり、低中所得国のPPR能力構築を支援するための資金動員を目的としている [1]。

協定の採択と並行して、2024年の国際保健規則(IHR)改正も実施されており、WHOの緊急事態宣言に対する各国の対応義務や情報共有の迅速化が盛り込まれている。Lancetに掲載された分析論文によれば、IHR改正は2022年サル痘対応や2024年の未知の呼吸器感染症アウトブレイクへの対応で既にその実効性が問われており、協定採択後も各国の国内法整備と資金拠出が鍵となるとされる [8]。なお、協定の最大の未解決事項とされるのが病原体アクセスと利益配分(PABS)に関する附属書の交渉であり、2026年5月の第79回世界保健総会を目途に政府間作業部会(IGWG)が審議を継続している [1]。

先進国と途上国の分断

パンデミック協定の交渉過程で最も深刻な対立が生じたのは、mRNA技術移転をはじめとする知的財産・技術アクセスの問題とされる。低中所得国(LMIC)は、COVID-19においてワクチン接種率が高所得国に比べて著しく低かった経験から、次のパンデミックに備えた製造能力の国内構築と技術移転の義務化を強く求めた [6]。これに対し、製薬会社を多く抱える高所得国は知的財産権の保護と「自発的」な技術移転を主張し、義務化に難色を示した。

最終的な協定文においては「技術移転の促進」は盛り込まれたが、義務的条項としての法的強制力は限定的とされる。Lancetの評価では、実効性はPABS附属書の最終合意と各国の国内実施措置にかかっており、「協定の採択は出発点であり、終着点ではない」という認識が研究者・NGO間で共有されているとされる [8]。WHOのmRNA技術移転(mRNA TT)プログラムは2026〜2030年のフェーズ2.0に移行し、南アフリカ・ラテンアメリカ・東欧・アジアの15のパートナー機関がGMPグレードのmRNAワクチン・治療薬を商業規模で生産できる体制構築を目指すとされている [6]。

米国のWHO脱退と国際保健ガバナンスへの影響

脱退の政治的文脈と資金ギャップ

トランプ政権は大統領令で、WHO脱退の理由として「COVID-19パンデミックへの対応における重大な失敗」「必要な改革への拒否」「説明責任・透明性・独立性の欠如」を挙げた [3]。これは実質的に、WT Oの中国との関係や、パンデミック初期の情報共有遅延に関する批判を反映したものとされる。2026年1月22日に脱退が完了したことにより、WHOは2022〜2023年拠出額で12〜15%を占めていた米国拠出を失い、組織運営に深刻な影響が生じた [2]。WHO事務局は2026〜2027年2ヵ年予算として本来必要な額の約75%しか確保できておらず、2025年前半に3,000ポスト(22%相当)の削減を実施したとされる [2]。

代替策として米政府は二国間の保健協定路線を採用し、アフリカ諸国14カ国と総額160億ドルの保健分野二国間協定を締結したと報告されている [2]。しかしこの方針は、グローバルなサーベイランスネットワークや国際的な緊急対応調整という観点からは、WHOを通じた多国間協調の代替にはなり得ないとの懸念が公衆衛生の研究者から示されている。カイザー・ファミリー財団(KFF)の分析によれば、米国のWHO拠出は単なる財政支援にとどまらず、技術専門家の派遣・インシデント管理システムの統合・ポリオ根絶プログラムなど幅広い分野に及んでおり、財政的な空白以上の機能的損失が生じているとされる。

その他主要国の反応とWHO財政の再構築

米国の脱退を受けて、欧州連合(EU)、英国、ドイツ、フランス、日本などの主要拠出国は拠出増額の意向を示した。EU全体としての拠出は2026〜2027年予算期間において増加が見込まれる。日本は第5次補正予算でWHO関連の国際保健安全保障への追加資金拠出を検討しているとされる。一方で、途上国支援のため設立されたGAVI(ワクチンと予防接種のための世界同盟)は米国議会が2026年に3億ドルの拠出を承認したものの、トランプ政権はGAVIへの拠出削減の意向を示しており、議会と行政府の綱引きが続いている [5]。CEPIは2022〜2026年期間の拠出・誓約額が21億ドルに達したとされるが、この中にはビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団からの1億5,500万ドルも含まれる [5]。

パンデミック対策投資の経済合理性

予防的投資と経済損失の比較

世界銀行とWHOが提示するパンデミック予防・備え・対応への年間必要投資額は311億ドルとされる [7]。この数字はCOVID-19の推定経済損失13兆8,000億ドルと比較すれば、わずか0.2%程度に相当する。Lancet Global Healthに掲載された研究によれば、1990年から2026年にかけてのグローバルなパンデミック対策投資は、そのほとんどが事後対応的(リアクティブ)であり、予防的・備え的投資(プロアクティブ)への比率が著しく低いことが示されている [4]。特にコロナ禍での緊急支出は2020〜2021年に急増した一方、その後の財政緊縮フェーズでの感染症対策予算削減が41カ国で顕著であることを世界銀行は指摘している。

PMCに掲載された経済成長モデリング分析では、311億ドル規模の年間投資が実現した場合、次のパンデミック発生時のGDP損失抑制効果はその費用の数倍から数十倍に相当するとされる [7]。しかし、この投資の動員可能性には疑問符もつく。OECDの財政見通しによれば、多くの高所得国が対GDP比財政赤字削減を優先する局面にある中、感染症対策という長期・不確実なリスクへの予防投資は政治的に後回しになりやすいとされる。IMF世界経済見通し2026年版が示す財政制約については別稿で整理している。

保健システム投資と高齢化社会の複合課題

パンデミック対策への投資は、高齢化社会における保健医療支出の拡大という構造的課題とも複雑に絡み合っている。高齢化と財政持続可能性については別稿で詳述しているが、高齢者比率の上昇は一般的な医療コストを押し上げるのみならず、感染症への脆弱性も高める。COVID-19においては、高齢者層の致死率が若年層の数十倍に達したことが示されており、高齢化先進国ほど感染症パンデミックの経済損失が大きくなる傾向がある。

世界銀行の「二重ショックから二重回復へ」報告書では、COVID-19が財政と保健の双方に与えた打撃を「二重ショック」と位置づけ、回復過程においても低中所得国の保健支出が2027年時点でCOVID-19前の水準を下回ると推計している [4]。これは次のパンデミックに向けた準備不足というリスクの具体的な形である。薬事・医療規制体制、医療従事者の育成・確保、公衆衛生インフラへの継続的投資がなければ、協定という法的枠組みだけでは実効的なパンデミック対応能力は育たないとされる。

WHO改革と国際保健ガバナンスの将来

テドロス事務局長体制下の改革議題

WHOのテドロス・アダノム・ゲブレイェスス事務局長は2027年まで2期目の任期を務める。米国脱退という危機的状況の下で、WHO事務局は組織の効率化・財政基盤の多様化・民間セクターとのパートナーシップ拡大という三つの方向で改革を進めているとされる。財政面では、加盟国による義務的拠出金(assessed contributions)の比率引き上げが提案されており、従来は自発的拠出に大きく依存していた予算構造の見直しが議論されている。義務的拠出の比率が上がれば、特定ドナー国の政策変更による財政ショックへの耐性が高まるとされるが、主要国の同意を得ることは容易でないともされる。

WHO改革のもう一つの論点は、民間財団・製薬企業との関係である。ゲイツ財団はCEPIへの出資など複数の経路でWHO関連活動に大規模な資金を提供しているが、利益相反リスクや民主的ガバナンスへの影響を懸念する声も根強い。CEPIとGAVIはパンデミック時のワクチン開発・配布において補完的役割を果たすが、両機関とも主要国政府の財政支援に依存しており、特に米国拠出の動向が組織の活動規模を左右する。GAVIの2026〜2030年戦略「GAVI 6.0」は、米国の継続的拠出を前提に設計されており、米国議会が承認した3億ドルでも十分ではないとの見方も示されている [5]。

パンデミックファンドと国際金融メカニズム

2022年にG20の下に設立されたパンデミックファンドは2026年4月時点で8億8,500万ドルの補助金を供与し、75カ国47プロジェクトを支援してきたとされる。パートナー資金を含むと60億ドル超の動員効果があるとされるが、世界銀行・WHOが提示する年間必要投資311億ドルとの乖離は依然として大きい [7]。第4回公募(2026年4月〜2027年3月)では、One Healthアプローチ・共同出資・コミュニティ関与を要件とした補助金が提供される。

課題として指摘されるのは、パンデミックファンドの支出が低中所得国に集中している一方で、高所得国のPPR投資は主として国内財政から賄われており、グローバルな集合行為問題(collective action problem)が根本的には解決されていない点である。感染症は国境を越えて拡散するため、どの国が感染症対策に投資するかはすべての国の安全に影響する。しかし各国政府は自国民への政治的説明責任を優先するため、国際的な公共財への投資は市場の失敗(市場では過小供給される財)として扱われる傾向が強い。グローバル製薬企業のM&Aやバイオテク投資の動向については別稿で詳述している。

注意点・展望

WHO改革とパンデミック対策をめぐる今後の展望には、複数の不確実性が重なる。最大の変数は米国の姿勢である。トランプ政権の残余任期や次期政権の方針によっては、米国がWHOへの再加盟を検討する可能性も排除されない。バイデン政権下の2021年に米国がWHOに復帰した経緯があることから、政権交代がWHO財政の回復につながるシナリオも存在する。ただし、再加盟には議会承認が必要となる場合もあり、タイムラインは不透明とされる。

PABS附属書の交渉は2026年5月の世界保健総会を目途に続くが、高所得国と途上国の根本的な利益の相違が解消されていない中での合意形成は容易でないとされる。mRNA技術移転プログラムのフェーズ2.0が商業的に持続可能な製造拠点を確立できるかは、企業の参加インセンティブ設計と資金調達の両面にかかっている。また、HMPV(ヒトメタニューモウイルス)、鳥インフルエンザH5N1の散発的ヒト感染、あるいは未知のRブレイクアウトが生じた場合のWHOの緊急対応能力は、米国脱退後の人員削減を考慮すると一定の低下が懸念される。

まとめ

2025年5月に採択されたWHOパンデミック協定は、COVID-19の教訓を踏まえた多国間保健ガバナンスの前進として評価される一方、米国のWHO脱退という重大な制度的ショックと同時進行した。WHO財政は約75%の予算充足水準にとどまり、組織の人員削減が実施された。CEPIとGAVIは引き続き機能しているものの、資金ギャップは大きい。経済的観点からは、年間311億ドルのPPR投資は、COVID-19の13兆8,000億ドルの損失と比べれば極めて費用対効果の高い選択であることが示されている。しかし政治的意思と財政的優先順位が整合しない限り、グローバルな感染症対策体制の実効的強化は困難な課題であり続ける。

Sources

  1. [1]WHO Pandemic Agreement adopted by World Health Assembly, May 2025
  2. [2]US withdrawal from WHO completed January 2026 - CDC Newsroom
  3. [3]Whitehouse.gov: Withdrawing The United States From The World Health Organization
  4. [4]World Bank: Global investments in pandemic preparedness and COVID-19
  5. [5]CEPI and Gavi extend partnership to target future disease outbreaks
  6. [6]WHO mRNA Technology Transfer Programme Phase 2.0
  7. [7]PMC: How feasible is it to mobilize $31 billion a year for pandemic preparedness
  8. [8]PMC: 2025 World Health Assembly Pandemic Agreement and IHR Amendments

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