「座礁資産」の逆説:化石燃料への資金供給が続くのに、なぜ脱炭素論者の警告は届かないのか
IEAが警告する「新規化石燃料開発は不要」の見解にもかかわらず、銀行・年金・SWFは石油・ガス開発への資金供給を続ける。ESGバックラッシュ・エネルギー安全保障論・会計基準の問題から、座礁資産リスクが価格に織り込まれない構造的理由を論じる。

はじめに
国際エネルギー機関(IEA)は2021年に公表した「ネット・ゼロ by 2050」ロードマップの中で、「2021年以降、1.5℃目標に整合するシナリオにおいては新規の油田・ガス田開発は一切必要ない」と明示した [1]。この声明は当時、エネルギー業界に衝撃を与えた。IEAは長年、石油・ガス産業の「公認アドボケート」と見なされてきたからだ。それから4年余が経ち、2026年のノルウェーでは2026年1月だけで新たな探鉱ライセンスが61件付与され、そのうちノルウェーが含む埋蔵量は原油換算で4030万バレル・天然ガス1031億立方フィートに上るとされている [9]。
「座礁資産(stranded assets)」という概念は、カーボントラッカー・イニシアチブが2011年に広めた以来、気候変動関連の投資リスク論の中心的な概念だ。化石燃料埋蔵資産が「将来使用不可能」となることで、これを抱える企業・投資家が巨額の損失を被るという警告だ [8]。しかし現実には、2024年の主要銀行による石油・ガス向け融資は3年ぶりの高水準である8690億ドルを記録した [2]。なぜ「警告」は届かないのか。この逆説を構造的に解明する。ESGバックラッシュと企業の持続可能性戦略および炭素除去技術とCCUS投資の動向も踏まえながら論じる。
座礁資産リスクの理論的枠組み
「使えない炭素」の規模と市場価値
炭素予算(1.5℃目標に整合する累積排出量の上限)に基づけば、現在確認されている化石燃料埋蔵量の大部分は「燃焼不可能」だ。カーボントラッカーの推計によれば、地質学的に存在が確認されている石油・ガス・石炭の埋蔵量のうち、60%の石油・ガスと90%の石炭は1.5℃目標の下では地中に留めておかなければならない [8]。
この「使えない炭素資産」の現在価値(NPV)は、プラウジブルな気候政策変化の想定の下で上流石油・ガスセクター単独で1兆ドルを超えるという試算がある [3]。この損失のほとんどは、OECD加盟国の民間投資家(年金ファンド・保険・個人資産管理)を通じて最終的に家計に帰着するとされる [3]。
TCFDと「シナリオ分析」の試み
2015年に金融安定理事会(FSB)が設立した「気候関連財務情報開示タスクフォース(TCFD)」は、企業・投資家にシナリオ分析(2℃・1.5℃シナリオ等)に基づく将来リスクの開示を促した。原則として採用する企業・金融機関は世界で4000社以上に上り、中央銀行・監督機関もTCFD準拠を義務化する方向に動いてきた。
しかしシナリオ分析の開示が「実際のポートフォリオ調整」につながっているかは別問題だ。IEEFAの分析 [10] は「グローバルな資本はリスクを認識し始めている」としながらも、「資産評価への実際の織り込みはまだ限定的」と指摘する。認識と行動の間のギャップを生む要因の解明が、この問いの核心だ。
ESGバックラッシュの政治経済学
米国における「反ESG」運動の台頭
2024〜2025年にかけて、米国では「反ESG(anti-ESG)」の政治的・立法的圧力が急激に高まった。共和党州政府(テキサス・フロリダ・ウェストバージニアなど)がESGを考慮した投資を「受託者責任違反」と批判し、独占禁止法訴訟の脅しを背景に金融機関への圧力を強めた [6]。
その結果、2024年末から2025年初頭にかけて、JPモルガン・シティグループ・バンク・オブ・アメリカ・ウェルズファーゴ・ゴールドマン・サックス・モルガン・スタンレーが相次いで国連主導のネット・ゼロ銀行同盟(NZBA)から脱退した [6][7]。同様に、資産運用会社の「ネット・ゼロ・アセット・マネジャーズ(NZAM)イニシアチブ」からも主要プレイヤーが離脱し、2025年10月には事実上NZBAは崩壊状態に陥った [7]。
トランプ政権は2025年2月の大統領令で、米国SEC(証券取引委員会)の企業気候開示義務化を停止させた [5]。これにより、米国企業の気候リスク開示は「自発的」に逆戻りし、投資家がスコープ1・2・3の排出量データを比較可能な形で把握することが難しくなった。この動きは欧州・アジアの機関投資家には「誤ったシグナル」を発したと批判されているが、米国市場での資金調達を重視する銀行・年金が政治的圧力に屈した構図は明確だ [6]。
グリーンウォッシュへの反動としての「ESG疲れ」
より深刻な問題として、ESG商品のパフォーマンスと信頼性への幻滅がある。2025年には世界の持続可能ファンドから840億ドルが流出した [5]。その背景には「ESGラベルが実際の環境・社会的インパクトを保証しない」という批判の高まり、ロシアのウクライナ侵攻後のエネルギー安全保障危機による化石燃料株の相対的好パフォーマンス、そして規制上の「グリーンウォッシュ」調査(欧州各国で続発)による投資家の警戒感がある [5][6]。
「ESGバックラッシュ」は、実は二方向から起きている。保守系政治家・業界団体が「過剰な気候規制」として批判する方向と、環境団体・アカデミアが「不十分な実効性とグリーンウォッシュ」として批判する方向だ。この二重のバックラッシュの中で、機関投資家は「どこに向かって走ればいいかわからない」状態に陥っている面がある。
エネルギー安全保障論という「免罪符」
ロシア・ウクライナ戦争後の燃料安全保障優先
2022年のロシアのウクライナ侵攻は、欧州のエネルギー安全保障危機を引き起こした。ドイツをはじめとする欧州諸国はLNG・石炭への回帰を余儀なくされ、「エネルギー安全保障なき脱炭素は不可能」という現実論が強まった [9]。この経験は「化石燃料投資の正当化論」に新たなロジックを与えた。
「安定供給の確保(エネルギー安全保障)」「経済的手頃さ(アフォーダビリティ)」「低炭素化(サステナビリティ)」というエネルギー政策の「トリレンマ」において、安全保障とアフォーダビリティが再び優先順位の上位に来た。原子力ルネサンスとエネルギー政策 の動きが示すように、先進国では「ゼロカーボン電源の多様化」という枠組みで原子力が復活しているが、化石燃料の完全代替には遠い。
エネルギー安全保障論は、「短期の供給安定化のために長期の気候リスクを甘受する」という選択を正当化するレトリックとして機能しており、特にGCC諸国・産油国・資源輸出国は「需要国が買い続ける間は供給する」という立場を貫いている。「供給側の自発的削減」だけでは化石燃料需要は減らず、「需要側の政策変更(炭素税・EV義務化・再エネ補助)」なしには座礁資産の現実化は起きないという構造論的な問題が残る。
会計基準と開示の「制度的隙間」
化石燃料資産の減損会計の非対称性
座礁資産リスクが市場価格に「織り込まれない」最大の制度的理由の一つは、現行の会計基準(IFRS/GAAP)における資産評価の仕組みにある [4]。石油・ガス企業の「証明済み埋蔵量(proved reserves)」は、現在の経済的採算性(現行価格での採掘可能性)に基づいて評価される。「将来の気候政策変化によって使用不可能になる可能性」は、現行基準では体系的に評価に含まれない [4]。
IFACの分析 [4] が示すように、IAS 16(有形固定資産)やIASB(国際会計基準審議会)の関連基準は「座礁リスク」という概念を正面から扱っておらず、企業は気候政策変化のシナリオを自発的に減損判断に反映させるインセンティブを欠く。さらに、米国GAAPとIFRSの差異(GAAP下では資産評価の戻し入れが不可)が、地域によって異なる会計処理を生み、比較可能性を損ねている [4]。
「証明済み埋蔵量」の楽観バイアス
SEC規制の下でのE&P(探鉱・生産)企業による「証明済み埋蔵量」報告には、政策変化への感応度が含まれない。企業は現行の技術・価格・規制環境で5年以内に採掘可能と判断される資産を計上するが、「1.5℃シナリオ下での実現不能部分」は計上外に置かれる [4][8]。これは投資家が企業の本当の気候リスクエクスポージャーを把握できない情報の非対称を生む。
カーボントラッカーの「座礁戦略(Stranded Strategies)」報告書 [8] は、主要石油会社のキャピタルアレイメント(資本配分)を分析し、IEA 1.5℃シナリオと整合する資本支出計画を持つ企業がほとんど存在しないことを示している。企業側の反論は「IEAシナリオはあくまで政策シナリオであり、現実の需要予測ではない」というものだが、それは会計開示の充実を妨げる方向に作用している。
銀行・年金・SWFが撤退できない理由
受託者責任の「気候版解釈」の分裂
機関投資家が化石燃料から撤退を躊躇する法的理由の一つは「受託者責任(fiduciary duty)」の解釈の分裂だ。伝統的な解釈では、受託者は「受益者の最大の財務的利益」を追求しなければならず、「財務的パフォーマンスを犠牲にしたESG投資は受託者責任違反」という主張が成り立つ。実際、米国の共和党政権下では「年金基金がESG考慮で化石燃料を排除するのは受益者への裏切り」という論理で法的圧力が加えられた [6]。
一方、英国・EU・カナダなどの監督当局は「長期的な気候リスクを無視することこそ受託者責任違反」という解釈を採用し、機関投資家に気候リスク分析の組み込みを求めている [3][10]。この法的枠組みの国際的非整合が、グローバルに運用する年金・SWFの行動を複雑にしている。
「撤退」が効果を持つかという根本疑問
もう一つの根本的な問いは「機関投資家が化石燃料株・社債から撤退しても、実際の化石燃料生産は減らない」という現実だ [6]。欧州系銀行が化石燃料融資を削減すると、その穴を非銀行プライベートクレジットや新興国の銀行が埋めることが実証されており、「撤退は生産抑制ではなく、単なる投資家の交代」という批判がある [6]。化石燃料企業の資本コストを高め、新規開発の採算性を下げることに効果があるという論もあるが、その効果発現には時間がかかり、短期的には現行価格水準での事業継続が優先される。
注意点・展望
座礁資産リスクが最終的に「価格に織り込まれる」かどうかは、以下の三つの条件に依存する。
第一に、政策変化の速度。炭素税・排出量規制・EV義務化・再エネ補助が計画通り強化されれば、化石燃料需要は減少し資産価値の再評価が起きる。逆に政策が後退・延期されれば、現在の投資継続が「合理的」であり続ける。
第二に、会計・開示基準の強化。ISSB(国際サステナビリティ基準審議会)のS2基準(気候関連開示)が各国で義務化され、埋蔵量評価に気候シナリオが組み込まれれば、情報の非対称は改善される。ISSBの基準を採用した国・地域は2025年時点で20か国超に上るが、米国の離脱が「基準の孤立化」を招いている [5]。
第三に、座礁資産の「誰が最終的に損失を負担するか」の明確化。主要排出国の国有石油会社(サウジアラムコ・国家石油公社等)は上場企業と異なり、民間投資家の圧力が届きにくい構造を持つ。グローバルな座礁資産リスクの多くは、実は民主主義的な監視が届かない国家資本主義の領域にある。
国家石油会社と「地政学的化石燃料」の問題
SWFと国有企業のグレーゾーン
サウジアラムコ・アブダビ国家石油公社(ADNOC)・ノルウェーのエクイノール・クウェート石油公社など、世界の石油・ガス生産量の相当部分を担う「国家石油会社(NOC)」は、民主主義的な株主圧力の影響を受けにくい構造を持つ [1]。民間投資家が「ESG基準」を理由に石油大手から撤退しても、NOC主導の生産は減らない。むしろNOCは民間石油会社の生産縮小により市場シェアを高める可能性さえある [9]。
サウジアラビアの公的投資ファンド(PIF)やUAEのムバダラなど、産油国の政府系ファンド(SWF)は化石燃料収益を再投資先として先進国の株式・不動産・テクノロジーに分散している。これは「石油輸出国が化石燃料資産を保有しながら、再生可能エネルギー等の非化石資産へのポートフォリオを構築する」という非対称な動きであり、「座礁資産リスクを知る者が先に逃げている」という冷笑的な解釈も成り立つ。
「ジャスト・トランジション」の政治経済学
座礁資産論が取りこぼしがちなのは、化石燃料産業に依存する労働者・地域社会・政府財政の問題だ。石炭産業の衰退はアパラチア・ポーランド炭鉱地帯・インドネシア・コロンビア石炭生産地の雇用と地域経済に直結する。「公正な移行(Just Transition)」なしに強制的な化石燃料退出を進めることへの政治的抵抗は、先進国・途上国を問わず根強い [6][10]。
ILO(国際労働機関)と世界銀行の共同報告書は「化石燃料から再生可能エネルギーへの移行で雇用が増加するとしても、地理的・職種的な不一致が深刻であり、化石燃料依存コミュニティへのターゲット型支援なしには政治的支持は得られない」と指摘している。この問題は「気候政策の実効性」と「民主主義的な政策合法性」の緊張として、脱炭素政策への最も深い挑戦の一つを構成している。
民間プライベートクレジット市場の台頭
上場銀行がNZBAへの圧力から化石燃料融資を削減する傾向を示す一方、非上場のプライベートクレジット市場(PE・ヘッジファンド・プライベートデット)が化石燃料向け融資の肩代わりを担っている [6][7]。プライベートクレジットは開示義務が低く、監督当局の目が届きにくい。この「シャドー・バンキング的」な資金フローが「気候開示の義務化」を骨抜きにするメカニズムとして機能している点は、金融安定性の観点からも懸念される。
まとめ
「座礁資産の逆説」とは、リスクが可視化されているにもかかわらず資金供給が続くという現象だ。その構造的原因は一因ではなく、ESGバックラッシュの政治的圧力・エネルギー安全保障論による免罪・会計基準の制度的隙間・受託者責任解釈の分裂・撤退の効果への根本的疑問という複合的な要因の絡み合いにある。
脱炭素論者の警告が届かない、あるいは届いても行動変容につながらない理由は、「人々が無知だから」ではなく「制度的・法的・政治的インセンティブが行動変容を阻む方向に設計されているから」だというのが、現状分析の正直な結論だ。炭素除去技術への投資 のような技術的解決策は重要だが、それ単独では座礁資産リスクの構造問題を解消しない。会計改革・政策シグナルの一貫性・国際的な受託者責任解釈の収斂、これら三つの制度的条件が整わない限り、化石燃料への資金供給は続くという見立てが、現時点での現実的な評価となる。
Sources
- [1]Net Zero by 2050 - A Roadmap for the Global Energy Sector, IEA
- [2]Banking on Climate Chaos 2025, Rainforest Action Network
- [3]Stranded fossil-fuel assets translate to major losses for investors, Nature Climate Change 2022
- [4]Stranded Assets and Reserve Accounting, IFAC
- [5]ESG and sustainable funds faced challenging year in 2025, Morningstar / Institutional Asset Manager
- [6]Banks retreat from climate change commitments, The Invading Sea 2025
- [7]Why Did The Net Zero Banking Alliance Shut Down, FinTech Magazine
- [8]Stranded Strategies, Carbon Tracker Initiative
- [9]IEA reaffirms that there is no room for new oil gas or coal, Green Central Banking
- [10]Global capital acknowledges stranded asset risks, IEEFA
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