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70歳現役時代の賃金設計革命 — 企業人事が迫られる「シニア報酬」の構造的再構築

2025年施行の高年齢者雇用安定法強化を受け、日立・IHIなど大手企業が「定年後賃金維持」制度を相次いで導入。モチベーション管理とコスト増を両立させる企業人事の戦略転換を分析する。

山口 賢一郎編集長 / 企業・産業担当

70歳現役時代とは何か

日本の雇用制度は、1986年の「60歳定年義務化」、2006年の「65歳雇用確保措置義務化」、2021年の「70歳就業確保措置努力義務化」と、定年・再雇用の上限を段階的に引き上げてきた歴史を持つ [1]。2025年現在、65歳までの雇用確保は義務だが、70歳まではまだ努力義務の段階にある。

しかし現実の企業行動は制度の先を走り始めている。JILPT(労働政策研究・研修機構)の調査によれば、従業員1000人以上の大企業において70歳を超えて就業できる制度を持つ割合は2024年時点で40%を超え、上場企業の人事担当者の6割超が「今後3年以内に65歳超の賃金体系を見直す」と回答している [3]。

背景にあるのは少子化に伴う労働力不足の深刻化だ。日本の生産年齢人口(15〜64歳)は既に2000年代初頭からピークを過ぎており、OECDは「2030年代に日本の生産年齢人口は現在比で10%以上減少し、GDP押し下げ圧力は年率0.3〜0.5%程度になり得る」と警告している [5]。この需給ギャップを埋める上で、シニア層の「戦力化」は企業にとって経営上の優先課題となっている。

なぜ起きたか

背景・前提条件

日本企業の伝統的な賃金体系は、年功序列・職能資格制度に基づき勤続年数とともに賃金が上昇する構造だった。この制度は高度経済成長期に企業の長期雇用コミットメントと従業員の忠誠心を結びつける機能を果たしたが、2000年代以降の成果主義導入や人件費管理の強化に伴い揺らいできた。

定年後の再雇用においては、多くの企業が「役職・職責の消滅」を根拠に賃金を定年前の50〜60%程度まで引き下げる「嘱託社員」制度を採用してきた [7]。これは企業側にとっては人件費コントロールの手段だったが、実態として業務内容がほとんど変わらないにもかかわらず賃金だけが大幅に下がるケースが散見され、最高裁判所はこうした格差に対して「不合理」との判断を相次いで示してきた。

OECD統計によると、2025年時点で日本の65〜69歳男性の就業率は52%を超え、先進国の中で最高水準に位置する [4]。しかしその雇用の多くが低賃金・短時間・非正規という性格を持ち、スキルや経験を十分に発揮できない構造的問題が指摘されてきた [3]。

直接の引き金

複数の要因が重なり、2024〜2025年を転換点として大手企業が相次いでシニア賃金体系の抜本的見直しに踏み出した。

第一に、経団連が2024年4月に公表した提言「高齢社員のさらなる活躍推進に向けて」だ [7]。この提言は「継続雇用時の処遇は同一労働同一賃金の原則に照らして見直しが必要」と明示し、加盟大企業に対して賃金体系の再設計を事実上求めるものだった。

第二に、大手製造業の先行事例が相次いで報じられたことだ。日立製作所は定年後再雇用者の賃金を在職時の水準に近づける制度を導入し、IHIも65歳以降も賃金を大きく下げない仕組みを整備した。世界経済フォーラムはこれらの取り組みを「労働力不足への企業の戦略的対応」として国際的に紹介している [6]。

第三に、AI活用による生産性格差の拡大だ。デジタルスキルを持つシニアと持たないシニアの生産性差が可視化され始め、「一律に賃金を下げる」制度の不合理さが企業内部でも認識されるようになっている [4]。

誰が影響を受けるか

企業・産業への影響

シニア賃金維持の制度化は、短期的には人件費増を意味する。製造業・金融・インフラ系企業を中心に、65歳以上の従業員比率が5〜10%を超える企業では、人件費の2〜4%程度の増加圧力となりうる試算も出ている [3]。

しかし長期的には、熟練技能者の流出防止による製造現場の技術継承効果、顧客向け専門知識の維持、管理コストの低減など、便益も大きいとされる。特に製造業において技能継承の途絶がQCD(品質・コスト・納期)に影響する懸念は切実で、日本の中小製造業の4割以上が「熟練技術者の退職リスクが経営の最大課題」と答えるとの調査もある。

一方で「モチベーション管理」の問題は解決が容易ではない。賃金を維持しても役割・権限・昇進ラインが不明確では、シニア社員が高い生産性を維持する動機が弱い。人材育成・メンタリング・社内起業家など「シニアにしかできない付加価値」を役割として明確化する仕組みが企業の実務課題となっている。

投資家・家計への影響

投資家の視点では、シニア賃金見直しは「賃金コスト増」として短期的にはネガティブに見えるが、労働力不足対策として中長期の生産性維持に寄与するなら、むしろプラスの評価が成立し得る。経団連提言以降、人事制度の先進性が機関投資家の評価軸として取り上げられる場面が増えている [7]。

家計の視点では、定年後も賃金が維持されることは老後の年金受給を補完する大きなメリットをもたらす。日本の年金制度は従来「65歳以降は年金と低賃金再雇用の二本立て」を前提とした設計だったが、70歳まで年金受給を繰り下げつつ高賃金で働けるなら実質的な老後収入は大幅に改善する。こうした「働き方の選択肢の広がり」は、日本の家計・個人消費に構造的なプラスをもたらす可能性がある [1]。

高齢者雇用政策の構造的な課題については高齢者就労拡大の政策的限界で詳しく論じている。

今後どうなるか

短期(数か月〜1年)の見通し

2026年中は、大企業から中堅・中小企業へのシニア賃金改革の波及が焦点となる。大手企業の制度変更は「業界の標準」形成に寄与しやすく、特に自動車・化学・金融セクターで追随の動きが出るとみられる。

政府・厚生労働省も2027年度改正を視野に、70歳雇用確保措置を義務化するための検討を開始している。これが義務化されれば、賃金体系の見直しは「早期対応の先進企業の事例」から「全企業の必須課題」へと性格が変わる [1]。

中長期(1〜3年)の構造変化

中長期的に最も重要な変化は、「年功序列からジョブ型・スキル型への移行」とシニア活用の融合だ。ジョブ型雇用の下では、職務内容と責任に応じた賃金設定が原則であり、同じ職務を担うシニアが若手より低い賃金を受け取る根拠はなくなる [4][5]。

同時に、AIとの協働による生産性の「可視化」が進むと、シニア・若手を問わず個人ごとの生産性と報酬のリンクが強まる。「年齢に関係なく成果で評価する」仕組みへの移行は、シニアにとっても「能力があれば報われる」環境を生む可能性がある一方で、スキルアップができないシニアには厳しい評価環境となる。

労働市場全体の高齢化と生産性の関係については高齢化労働力と生産性のパラドックス2026も参照されたい。

Newscoda の見方

Newscoda として注目するのは、シニア賃金改革が単なる人件費問題にとどまらず、日本企業の「人的資本経営」への転換を象徴する試金石になっている点だ。2023年に義務化された人的資本開示(有価証券報告書での記載要件)は、シニア活用戦略を含む人材投資の「可視化」を企業に求めており、シニア賃金体系の整備状況は機関投資家がESGと絡めて評価する指標として定着しつつある。

他の解説では「コスト増か生産性向上か」という二項対立で語られることが多いが、Newscoda としては「シニアに何をやってもらうか」という役割設計こそが本質的な問題だと考える。賃金を維持するだけでモチベーションが生まれるわけではなく、シニアが「若手にはできない貢献」を明確に発揮できるポジション設計の有無が、制度改革の成否を決める。

今後6〜12か月で観察すべき変数:

  • 政府による「70歳雇用義務化」法改正の議論の進捗(2027年度改正入りの可能性)
  • 大手製造業・金融における65歳超賃金維持制度の導入企業数の推移
  • 東証上場企業の有価証券報告書における「シニア人材活用方針」の開示内容の変化
  • 定年後賃金格差に関する司法判断(最高裁・高裁レベル)の蓄積

まとめ

70歳現役時代の到来は、日本企業の賃金設計・人事管理の根本的な見直しを迫っている。日立・IHIをはじめとする大手企業が「定年後も賃金を維持する」制度に踏み出した背景には、少子化による労働力不足、同一労働同一賃金への法的圧力、そして経団連の政策誘導が重なっている [7]。

短期的なコスト増は避けられないが、熟練技能者の維持・技術継承・ブランド価値の維持という便益が長期的に上回り得るという経営判断が広がりつつある。2026年以降は中小企業への波及と「義務化」論議が、この改革の速度を左右する。シニアの「役割設計」という人事上の実務課題に、企業がどこまで本気で向き合えるかが、日本の労働市場構造を変えるかどうかの分水嶺となる。

Sources

  1. [1]令和6年版 労働経済の分析(厚生労働省)
  2. [2]Ministry of Health, Labour and Welfare — Labour Statistics
  3. [3]JILPT調査研究報告書 No.277「高年齢者の多様な就業と生活」
  4. [4]OECD Employment Outlook 2025 — Japan Country Note
  5. [5]Addressing Demographic Headwinds in Japan — OECD Working Paper
  6. [6]How Companies Are Addressing Workforce Shortages Through Senior Employment in Japan — WEF
  7. [7]高齢社員のさらなる活躍推進に向けて(経団連提言)

よくある質問

70歳雇用確保は法律で義務付けられているのか?
2025年時点で65歳までの雇用確保は義務だが、70歳まではまだ「努力義務」の段階にある。しかし大手企業を中心に自主的に70歳雇用確保を制度化する動きが急速に広がっており、数年内に義務化議論が本格化するとみられている。
定年後再雇用の賃金が下がるのはなぜか?
多くの企業が「定年後は役職がなくなるため職責が低下する」として60〜65歳の賃金から30〜50%程度の減額を行ってきた。しかし業務内容が実質的に変わらないにもかかわらず賃金だけが大きく下がるケースも多く、モチベーション低下やスキル移転の阻害要因になっている。
企業はなぜシニア賃金体系の見直しを進めているのか?
少子化による若年労働力不足が深刻化する中、熟練シニアの戦力維持が経営上の優先課題になっているためだ。また同一労働同一賃金の原則をめぐる司法判断の積み重ねや、政府の要請も背景にある。経団連も2024年に高齢社員活躍のための報酬体系見直しを提言している。
「塩漬けシニア問題」とはどういうことか?
賃金が下がっても業務内容は変わらず、昇進・昇給の見込みもないという状況に置かれたシニア社員の中に、モチベーションを失い最低限の仕事しかしない層が生まれる現象を指す。企業にとってはコストが発生する一方で生産性が上がらず、周囲の若い社員にも悪影響を与える懸念がある。

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