ジョブ型雇用への転換 — 既存社員の賃金と再教育に何が起きているか
政府が2024年8月に公表した「ジョブ型人事指針」を軸に、メンバーシップ型からジョブ型への移行が中堅・シニア社員の賃金体系や再教育投資にどう跳ね返っているかを整理する。企業規模による差や労働移動性の変化も検証する。
ジョブ型雇用とは
ジョブ型雇用とは、従業員の能力や属性ではなく、仕事内容や役割の重要さに基づいて処遇・評価を決定する人事制度を指すとされる [3]。年齢や勤続年数に応じて処遇が上がる年功序列型の「メンバーシップ型雇用」とは異なり、あらかじめ職務記述書で職責・必要スキルを明示し、その職務を担う人材に見合った賃金を支払う仕組みが基本となる。
2024年8月28日、内閣官房・経済産業省・厚生労働省は、既にジョブ型人事を導入している20社の事例を整理した「ジョブ型人事指針」を公表した [1]。指針は従来の日本型雇用制度を「新卒一括採用中心、異動は会社主導、従業員の意思による自律的なキャリア形成が行われにくいシステム」と総括した上で、個々の職務に応じて必要なスキルを設定し、従業員が自ら職務やリ・スキリングの内容を選択していく制度への移行を促す内容となっている [1]。厚生労働省も職務給の導入を検討する企業向けにハンドブックや活用事例集を整備し、導入企業の声や課題を紹介している [3]。
ジョブ型雇用は新卒採用の入口だけの論点ではない。既に在籍する中堅・シニア社員の評価制度・賃金体系・キャリアパスの再設計を伴う、人事制度全体の転換として進められている点が実務上の焦点になっている。
なぜ進んでいるか
背景・前提条件
日本企業の長期雇用システムは、新卒一括採用と年功的な賃金構造を組み合わせることで、企業が人材育成コストを長期的に回収し、従業員には勤続に応じた生活保障を提供するという相互依存関係の上に成り立ってきたとされる [2]。労働政策研究・研修機構(JILPT)の分析によれば、日本で勤続10年以上働く労働者の比率は46.8%と、イタリアに次いで世界で2番目に高い水準にある [2]。
しかしこの構造には、勤続年数の長期化に伴って賃金が労働者の生産性を上回るリスクが内在するとされる [2]。厚生労働省の調査によれば、2019年から2021年にかけて企業の40.4%が賃金制度を改定しており、その内容は「職務内容に対応する賃金部分の拡大」など、年齢や勤続年数によらず職務・成果を賃金に反映させる方向への変更が中心だったとされる [2]。また大学卒業者のうち40歳代前半で課長級に就く割合は、1990年の32.3%から2021年には16.5%まで低下しており、「昇進による処遇上昇」という従来型のモデル自体が成立しにくくなっている実態も示されている [2]。
直接の引き金
2024年6月21日の閣議決定「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画」は、内部労働市場と外部労働市場をシームレスに接続し、労働者が社内・社外を問わず自らの意思で労働移動できる仕組みづくりを掲げ、これを受けて同年8月に「ジョブ型人事指針」が策定された [1]。指針が指摘する日本企業の危機感は、①最先端の知見を持つ専門人材が採用しにくい、②若手を適材適所の観点で抜てきしにくい、③海外ではジョブ型が一般的なため人材のリテインが難しい、の3点に整理されている [1]。
指針が先行事例として取り上げたKDDIは、2019年12月にジョブ型人事制度の導入を決定し、2022年4月までに全社へ拡充した [4]。同社はキャリア採用実績を2013年度比で約10倍に、若手管理職を2021年4月比で約2.6倍に増やす成果を上げ、この実績が政府指針での先行事例選定につながったとされる [4]。
誰が影響を受けるか
企業・産業への影響
「ジョブ型人事指針」が取り上げた20社は、従業員数万人規模の企業から、化学メーカーの東洋合成工業(従業員932人)のような中堅企業まで幅を持つ [1]。東洋合成工業は、創業社長が300人規模の組織を陣頭指揮する体制から、2014年の社長交代を機に人事機能の整備に着手し、2017年に管理職へジョブ型人事を導入したとされる [1]。中小企業では専任の人事部門自体が存在しないケースも多く、人事機能そのものの構築が制度導入の前提になる点は、大企業とは異なる制約として指摘できる。
制度の運用年数にも幅がある。三井化学は2003年に管理職へジョブ型人事を導入し、20年以上にわたり制度を運用してきたとされる [1]。同社は、ジョブ変更に伴う報酬変動を緩和する「グレードプール制」を2013年に導入し、等級が2段階変動する場合でも報酬の変動を一年あたり一段階ずつに抑える仕組みを設けているとされる [1]。こうした緩和措置の設計は、職務評価の厳格さと既存社員の生活保障のバランスをどう取るかという、制度導入企業に共通する実務課題を映し出している。
制度導入企業の多くは、社員向けのリスキリング投資も同時に拡充している。富士通は、ジョブ型人事の導入に併せて社員向けの学習コンテンツサービスを整備したところ、当初は若手社員の利用を想定していたにもかかわらず、実際には利用者の6割を40〜50代の社員が占め、外部のオンライン研修プログラムの受講者数も3年間で3倍に増えたとされる [1]。中堅・シニア層の学び直しの受け皿として機能した形であり、職務要件の明確化が世代を問わず学習意欲を喚起し得ることを示す事例といえる。
従業員・キャリア形成への影響
既存社員にとって最大の変化は、職務の変更に伴って賃金が上下し得る仕組みへの転換である。従来の年功序列型では基本的に生じなかった賃金の減額が、ジョブ型人事の下では制度上あり得るものとなり、多くの企業が数年単位の激変緩和措置を講じながら移行を進めているとされる。
定年後再雇用社員の処遇にも変化が及んでいる。指針が取り上げた事例の中には、定年後もマネジメントとして引き続き任用される社員に対し、その期間は従前と同じ等級で処遇する仕組みへ改めた企業や、専門性の高い定年後再雇用社員を選定し、通常の再雇用者より2〜3割高い処遇を適用する制度を新設した企業が含まれるとされる [1]。年齢で一律に処遇を切り下げてきた従来の再雇用慣行を見直し、担う職務の大きさに応じて処遇する方向への転換が、シニア層においても進みつつあることがうかがえる。
中堅・シニア社員の再教育は、制度転換の成否を左右する論点として位置付けられる。OECDの分析によれば、日本の55〜65歳の労働者の企業研修参加率は29%で、OECD平均の35%を下回るとされる [5]。さらにAIに関連したリスキリング・アップスキリングの企業研修に参加した割合は、35歳未満で37%であるのに対し50歳以上では25%にとどまり、年齢層による参加率の差はOECD平均を上回る水準にあるとされる [5]。公的な教育訓練給付の利用率でも、55歳以上は46.7%と、15〜34歳の57.6%、35〜54歳の53.2%を下回っているとされる [5]。ジョブ型人事が職務ごとに必要なスキルを明示しても、既存のシニア社員が実際にリスキリングの機会にアクセスできるかどうかは、制度設計とは別の課題として残っている。
今後どうなるか
短期(数か月〜1年)の見通し
「ジョブ型人事指針」は20社の先行事例を整理した参考資料という位置付けであり、法的な義務化を伴うものではない [1]。今後1年程度は、指針を参考にしながら自社の実態に応じた制度設計を検討する企業が、業種・規模を問わず広がっていく段階になるとみられる。厚生労働省が公開する職務給導入ハンドブックや活用事例集も継続的に更新されており [3]、中小企業を含めた導入支援の裾野は今後も拡大が見込まれる。
中長期(1〜3年)の構造変化
中長期的には、企業内の人材育成の在り方そのものが問われる局面に入るとみられる。OECDは、高齢化が進む労働市場において生涯を通じた学び直しの仕組みへの転換が急務であると指摘しており [5]、ジョブ型人事の下で職務要件が明確化されるほど、既存社員のスキルと要件との乖離が可視化されやすくなる。この乖離を埋める再教育投資を、企業が中堅・シニア層にどこまで振り向けられるかが、制度転換の実効性を左右する分水嶺になる可能性がある。
また内部労働市場と外部労働市場を接続するという政府方針の下、社内公募制度や副業制度の拡充を通じた労働移動性の向上が、今後も人事制度改革の主要なテーマであり続けるとみられる [1]。
Newscoda の見方
本サイトが注目するのは、ジョブ型雇用への移行が「新卒採用の変化」としてではなく、既に在籍する中堅・シニア社員の賃金体系と再教育投資の再設計として進んでいる点である。年功的な賃金カーブの見直しは若手の抜てきを可能にする一方で、既存社員の処遇が下がり得る仕組みへの転換でもあり、移行期の激変緩和措置の設計が企業ごとの実務上の焦点になっている。
他の論調は「ジョブ型導入企業数」の多寡に注目しがちだが、本サイトはOECDが示すシニア層の企業研修参加率の低さに象徴される「制度と実態の乖離」を重視する。職務要件を明確にするだけでは、既存社員の再教育は自動的には進まない。
今後6〜12か月で観察すべき変数は次のとおり。
- 「ジョブ型人事指針」を参考にした中堅・中小企業への制度導入の広がり
- 厚生労働省の調査における賃金制度改定企業の比率の推移
- 55歳以上の企業内研修・公的教育訓練給付の利用率の変化
- 社内公募・副業制度の利用実績を開示する企業の増加
内部昇進を前提とした従来型の管理職モデルの課題については「管理職になりたくない」構造はなぜ日本で突出するのかで、定年後の賃金設計改革の詳細については70歳現役時代の賃金設計革命で、それぞれ論じている。新卒採用の変容という別の切り口については「新卒一括採用」の終幕も参照されたい。
まとめ
ジョブ型雇用への移行は、2024年8月の政府「ジョブ型人事指針」公表を一つの契機として、企業規模を問わず広がりを見せている [1]。その背景には、勤続年数に応じた賃金上昇と生産性の乖離という長年の構造的課題があり [2]、専門人材の獲得競争と労働移動性の向上を求める企業側の危機感が直接の引き金となっている [1][4]。
制度転換の実務上の焦点は、既存の中堅・シニア社員の賃金体系の再設計と、リスキリングをどう実効性あるものにするかにある。OECDの分析が示すとおり、日本のシニア層の企業研修参加率は国際的に見て低く、年齢による参加率の差も大きい [5]。ジョブ型人事による職務要件の明確化が、実際の再教育投資と結びつくかどうかが、この転換の成否を最終的に左右することになる。
Sources
よくある質問
- ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用とでは具体的に何が違うのか
- メンバーシップ型は年齢や勤続年数に応じて処遇が上がる制度であるのに対し、ジョブ型は職務記述書で職責や必要スキルを明示し、その職務を担う人材に見合った賃金を支払う制度とされる。年齢や社歴によらず職務の大きさが処遇を決める点が特徴とされる。
- なぜ2024年になって政府はジョブ型人事の指針を公表したのか
- 内部労働市場と外部労働市場を接続し、労働者が自らの意思で社内外を労働移動できる環境を整えることが日本企業の競争力維持に必要という認識から、2024年6月の閣議決定を受けて同年8月に指針が公表されたとされる。
- ジョブ型雇用への移行によって既存社員の賃金が下がることはあるのか
- 職務の変更に伴い等級や賃金が下がり得る仕組みへの転換が制度上は生じるとされる。多くの企業は移行に伴う急激な処遇変化を避けるため、数年単位で減額幅の上限を設けるなどの緩和措置を講じているとされる。
- 中堅・シニア社員の再教育(リスキリング)は実際に進んでいるのか
- OECDの分析によれば、日本の55〜65歳の企業研修参加率はOECD平均を下回り、AI関連の研修参加率も50歳以上は35歳未満より低い水準にとどまるとされる。職務要件が明確になっても、シニア層の再教育機会へのアクセスには課題が残るとされる。
- ジョブ型雇用への移行は大企業だけに限定された動きといえるのか
- 政府指針が取り上げた事例には従業員数万人規模の企業から、従業員1000人未満の中堅企業まで含まれるとされる。ただし中小企業では専任の人事機能自体が整っていないケースも多く、制度導入の前提づくりから始める必要があるとされる。
関連記事
- ビジネス
ジョブ型人事が動かす転勤制度の再設計 ― 日本型雇用が迎える分岐点
職務基準の処遇制度への移行が進むなか、勤務地の「変更の範囲」明示義務化や選択制転勤の広がりなど、転勤制度の見直しがジョブ型人事とどう結びついているかを制度設計の観点から整理する。
- オピニオン
MBAの投資対効果はなぜ問われ直すのか 出願減少と生成AI時代の経営教育
欧米トップ校で出願者数が急減し学費値引き競争が広がる。生成AIによる中間管理職の陳腐化と企業の学費負担撤退を背景に、MBAの投資対効果と日本のビジネススクールの位置づけをQ&A形式で整理する。
- ビジネス
共働き時代に立ちすくむ全国転勤、大手企業はなぜ制度を手放すのか
共働き世帯の増加と人材流出リスクを背景に、大手生命保険・損害保険各社が全国転勤を前提とした人事制度の見直しを進めている。同意取得の義務化やエリア限定コースの拡大の背景と、企業・働き手双方への影響を整理する。
最新記事
- マーケット
日米で同時進行する超長期金利上昇 — 25年ぶり高水準の米国債と1996年以来の日本国債
2026年8月、米国30年債利回りが25年ぶりの高水準5.216%に達し、日本の10年債利回りも1996年以来の水準を記録した。BOJの利上げ観測と日米双方の財政懸念が重なる長期金利上昇の構造を整理する。
- 経済
記録的猛暑が突きつける「熱波経済」の代償 — 労働・電力・農業に広がる構造的コスト
2026年夏、韓国で観測史上最高の42.5度を記録するなど東アジアは記録的な猛暑に見舞われた。労働災害の急増、電力需給の逼迫、コメの品質低下など、気候変動が経済活動に及ぼす構造的コストを整理する。
- 国際
後退する民主主義という「見えない金利」— 制度的独立性の揺らぎと資本コストの関係
世界の民主主義水準が2026年、1978年の水準まで後退したとスウェーデンの研究機関V-Demが報告した。中央銀行人事を巡る市場の反応や学術研究が示す資本コストへの影響から、制度的リスクが投資判断に組み込まれ始めている過程を時系列で追う。