持続可能な航空燃料(SAF)の経済学 — CORSIA義務化が迫る「グリーン航空」への転換コストと日本の勝機
SAF生産量は2025年に全ジェット燃料需要の0.6%にとどまり、航空業界はCORSIAフェーズ1で105〜150MtCO2の相殺義務を負う。2〜5倍のコスト格差・生産拡大のボトルネック・日本10%目標への道筋を解説する。
はじめに
航空業界は世界全体のCO2排出量の約2〜3%を占める「難削減セクター」の一つだ。電動化が可能な鉄道・自動車と異なり、航続距離や搭載重量の制約から、大型旅客機の完全電動化は今世紀中に実現する技術的見通しが立っていない。この構造的課題への現実的解決策として、国際航空機関(ICAO)が採用したのが持続可能な航空燃料(SAF: Sustainable Aviation Fuel)を核とした炭素市場メカニズム、CORSIAだ。2024年から始まったCORSIAフェーズ1では130以上の国が参加する、史上初の国際航空業界向けグローバル炭素制度が本格稼働した [2]。
しかし現実は厳しい。2025年のSAF世界生産量は190万トン(約24億リットル)で、全ジェット燃料需要のわずか0.6%にとどまる [1]。価格は通常の航空燃料の2〜5倍に達し、欧州ではさらに高騰している。航空会社は2025年だけで36億ドルの追加コストを負担した計算になる [1]。一方でIEAは2030年までにSAFを燃料需要の2%まで引き上げるシナリオを示しており、そのためには2035年までに最大1.5兆ドルの累積投資が必要とされる [5]。
この記事では、SAFの経済構造・CORSIAが航空業界に課す財務負担・主要プレイヤーの戦略、そして「SAF産業」を戦略的に育成しようとする日本の取り組みを体系的に解説する。日本のGX・炭素取引制度が産業に与える影響との比較においても重要な論点を含む。
CORSIAが定める航空業界の脱炭素義務
制度の骨格:85%ベースラインと相殺要件
CORSIAはICAOが管轄する航空分野初の国際的セクター別市場メカニズムだ。2020年以降、国際線を運航する航空会社は年間排出量の計測・報告・検証(MRV)が義務付けられており、2019年排出量の85%を超えた部分についてのみ「相殺義務」が発生する設計となっている [6]。
相殺の手段は二つ。一つは「CORSIA適格炭素クレジット」の購入(主に途上国の植林・再エネプロジェクトへの資金拠出)、もう一つは「CORSIA適格SAF」の使用だ。SAFは炭素クレジットと異なり「排出削減」としてカウントされるため、フェーズが進むにつれてSAFへのインセンティブは相対的に高まる仕組みになっている [6]。
2024〜2026年のフェーズ1では130カ国が自主参加し、フェーズ1全体の相殺義務は105〜150MtCO2と見込まれる [2]。ただし米国・中国・ブラジルはフェーズ2(2027年〜)まで強制義務が発生しない「自主参加」にとどまっており、制度の実効性には依然として課題がある。
フェーズ2以降の強制化と適格燃料認定
2027年以降のフェーズ2では、国際線CO2排出量の一定シェアを占める国は強制参加となり、カバレッジが大幅に拡大する見通しだ。ICAO統計では、国際線排出量上位30カ国が全体の約90%を占めており、フェーズ2の制度は事実上の全面義務化に近づく。
SAFをCORSIAで「排出削減量」として算入するためには、「CORSIA Eligible SAF」として認定される必要がある。認定には、ISCC CORSIA・RSB CORSIA等の国際認証機関によるライフサイクルアセスメント(LCA)審査が必要で、LCAの炭素削減率が最低10%(実際には多くの経路で65〜80%削減)を達成していることが条件となる [6]。原料経路(廃食油・農業残渣・合成燃料等)によって認定スコアが異なり、制度設計の複雑さが中小航空会社の参加障壁になっているとも指摘される。
SAFのコスト構造と生産拡大のボトルネック
現在の価格格差:2〜5倍の壁
SAFの生産コストが高い根本理由は、製造プロセスの複雑さと原料調達コストにある。最もコスト効率が良い廃食油由来HEFA(水素化エステルおよび脂肪酸)型でも、通常のジェット燃料に比べて2〜3倍のコストが生じる。欧州では規制優先の結果、ReFuelEU Aviationによる需要先行がSAF価格を一段と押し上げており、5倍に達するケースも見られる [3]。
IATAの試算では、100万トンのSAF調達にかかる追加コスト(プレミアム分)は推定17億ドルに相当し、その同額を別のオフセット手段に充てた場合は350万トン超のCO2を追加削減できる逆説的計算が成立する [3]。この「コスト効率のジレンマ」は、規制によるSAF需要創出と炭素削減効率のトレードオフとして政策立案者を悩ませている。
ただし歴史的に見れば、太陽光・風力発電もかつては「経済合理性がない」と批判されたが、強制的な需要創出→量産スケール拡大→学習曲線によるコスト低下という経路をたどった。SAFがこれと同じ軌跡をたどれるかどうかが、今後10年の最大の論点だ [5]。
原料別の製造経路とスケール拡大の壁
SAFの製造経路は主に三つに分類される [1] [5]。
第一に「HEFA(水素化エステルおよび脂肪酸)」。廃食油・獣脂・藻類などを原料とし、現在のSAF生産の大半を占める。技術成熟度が高くコストも相対的に低いが、廃食油の世界供給量には上限があり、大規模拡大には限界がある。
第二に「AtJ(アルコール・トゥ・ジェット)」。農業残渣・都市廃棄物・サトウキビなどのバイオマスをアルコール発酵させ、ジェット燃料に転換する。原料の潜在量は大きいが、変換効率と製造コストの改善が課題だ。
第三に「e-SAF(合成燃料・Power-to-Liquid)」。CO2と再生可能電力から製造する水素を原料とする。理論上、脱炭素率は90%超と最も高い。しかし商業規模での展開にはグリーン水素の大量安定供給が前提となり、実用化の主流は2030年代後半以降とされる [5]。
主要プレイヤーの戦略
欧州の規制ドライブと航空会社の対応
欧州ではReFuelEU Aviationにより、2025年から空港への燃料補給量の2%をSAFとする義務が始まり、2030年には6%、2050年には70%まで段階的に引き上げられる。ルフトハンザ・エールフランスKLMは長期オフテイク契約で国内外のSAF生産企業と連携し、「SAFサーチャージ」として追加コストの一部を旅客に転嫁している [3]。
世界最大のSAFメーカーであるNeste(フィンランド)はシンガポール・ロッテルダム・カリフォルニアに生産拠点を持ち、HEFA型で世界市場をリードする。bp・Shell・TotalEnergiesなどの石油メジャーも既存のリファイナリーをバイオ燃料向けに転換する「コンバージョン戦略」を加速させている [4]。
米国:IRA優遇税制と生産遅延
米国ではインフレ削減法(IRA)のSection 40Bが2025年から2027年にかけてSAFに対する生産税額控除を提供し、国内生産の急拡大が期待されていた。しかしIATAの報告では、2024年の米国SAF生産は計画比を大幅に下回り [4]、設備建設の遅延・原料確保の困難・グリーン認証の手続き複雑化が主因として指摘されている。
IRAの継続性についても、トランプ政権下での政策見直しの動きが不確実性を高めており、民間投資家の設備投資判断に影響を与えている可能性がある。
日本の10%目標と「SAF産業創出」戦略
GX戦略における法令義務化と支援策
日本政府はGX(グリーントランスフォーメーション)推進計画の柱として、2030年までに国内航空燃料の10%をSAFに切り替える目標を設定し、燃料卸売業者への10%混合義務を法令化した [6]。国内GXの炭素市場制度との整合性については、日本のGX義務的炭素市場の設計と課題も参照されたい。
政府の総支援額は3368億円(融資含む)であり、国内SAF生産インフラの整備と技術実証プログラムを包括的に支援する [6]。具体的にはENEOS・コスモ石油・出光興産によるHEFA型商業プラントの建設、IHIによるAtJ型パイロットプラントの実証、川崎重工・三菱重工によるe-SAF技術開発が進行中だ。
ANA・JALの調達計画と国産サプライチェーンの課題
ANAとJALはともに2030年の10%目標に向けた調達計画を公表している [6]。当面は海外からの輸入SAFが主体となるが、INPEXとのバイオ原料調達契約、コスモ石油との国内製造連携など、国産ルートの開拓も並行して進む。
最大の課題は廃食油の国内調達量の限界だ。国内で回収可能な廃食油は年間約50万キロリットルとされ、目標達成には輸入廃食油や農業残渣・都市廃棄物の活用、さらには中長期でのe-SAFへの転換が不可欠となる。コストの観点では「海外産SAFを輸入する方が国産より大幅に安い」という現実もあり、国産育成のための価格差補填(バイアウト)の仕組みが政策的に問われている。
COP30気候ファイナンスと途上国支援の文脈では、日本のSAF支援が新興国の航空業界の脱炭素化にも波及する構造が生まれる可能性がある。
注意点・展望
第一に、CORSIAの実効性は「誠実な執行」に依存している。罰則条項の整備が十分でなく、特に大規模排出国がフェーズ2への参加義務を回避する動きを見せた場合、制度の形骸化リスクがある。
第二に、規制によるSAF義務化と炭素削減コスト効率のトレードオフが続く。義務化がコストを押し上げる一方で、スケール拡大によるコスト低下を促すというシナリオが成立するかどうかは、今後5〜7年の投資動向次第だ。
第三に、日本のe-SAF戦略はグリーン水素コストに強く依存する。水素コストが2030年代に商業的に競争力ある水準(1kg当たり1〜2ドル)まで低下するかどうかが、国産SAF産業の中長期競争力を左右する。
Newscoda の見方
Newscodaとして注目するのは、SAFが「コンプライアンスコスト」として語られがちな一方で、日本の重工・化学・エネルギー企業にとって「産業輸出機会」としての側面を持つ点だ。三菱重工・川崎重工・IHIはガスタービン技術・水素製造装置・バイオリファイナリー設計のいずれにおいても国際競争力を持ち、e-SAF設備の輸出やEPC(エンジニアリング・調達・建設)事業として収益化できる可能性がある。国内10%義務化は市場育成の「強制的な足場」として機能し得る。
多くの解説が「SAFは普及しない、高すぎる」という現時点の価格格差に焦点を当てるが、Newscodaとしては再生可能エネルギーの歴史(太陽光パネルの価格低下軌跡)との類比を重視する。強制的な需要創出→量産スケールアップ→コスト低下という学習曲線は、SAFでも同様のメカニズムが働く可能性がある。フェーズ2強制参加の拡大がその転換点になりえる。
今後6〜12か月で観察すべき変数:
- CORSIAフェーズ1(2024〜2026年)の相殺実績と各国検証報告の公開タイミング
- 日本国内のSAF商業プラント(ENEOS・出光・コスモ)の建設承認・着工決定の有無
- 米国IRA Section 40B(SAF税額控除)の議会での延長・廃止動向
- Neste・Shell・TotalEnergiesなど大手のSAF生産量目標達成率(2026年末実績)
- グリーン水素コスト:主要プロジェクトの2026〜2027年商業価格の開示
まとめ
SAFは航空脱炭素の現実的な「唯一の近道」として各国が注目するが、2025年時点での普及率はわずか0.6%という厳しい現実がある。CORSIAのグローバル義務化スキームは着実に進んでおり、2027年以降のフェーズ2強制参加拡大が本格的な需要創出の転換点となる見通しだ。コスト格差の解消には大規模投資と技術革新が不可欠であり、日本は「GX戦略」のもとで10%目標を掲げながら、国産サプライチェーン構築という高いハードルを越えることが求められる。SAFを純粋なコスト負担として捉えるか、産業競争力強化の機会と捉えるかで、企業・政府の投資判断は大きく分かれる局面に差し掛かっている。
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- #CORSIA
- #航空脱炭素
- #GX戦略
- #エネルギー転換
Sources
- [1]SAF Fact Sheet — IATA
- [2]CORSIA Fact Sheet — IATA
- [3]Policy Shortcomings Puts SAF Production at Risk — IATA (June 2025)
- [4]Disappointingly Slow Growth in SAF Production — IATA (December 2024)
- [5]Delivering Sustainable Fuels — IEA
- [6]What is SAF? — METI Agency for Natural Resources and Energy, Japan
- [7]CORSIA Overview — ICAO
よくある質問
- 持続可能な航空燃料(SAF)とは何か?
- SAFは廃食用油・植物バイオマス・廃棄物・合成燃料などの再生可能原料から製造されたジェット燃料で、ライフサイクル全体でCO2排出量を最大80%削減できる。現行のジェットエンジンに無改修で使用可能であり、既存の給油インフラとも完全互換性がある点が特徴だ。
- CORSIAとは何か、何を義務付けているか?
- CORSIAはICAOが運営する国際航空初のグローバル市場メカニズムで、2019年比85%を超えるCO2排出について、航空会社にカーボンクレジットの購入かSAFの使用を義務付ける制度だ。130以上の国が参加し、2024〜2026年のフェーズ1では105〜150MtCO2の相殺義務が見込まれている。
- SAFのコストはなぜ通常の航空燃料より高いのか?
- 原料調達・製造プロセスの複雑さ・設備投資規模が主因だ。欧州ではReFuelEU義務化により需要が先行し、通常燃料の5倍に達するケースもある。100万トン調達で推定17億ドルの追加コストが発生するとIATAは試算しており、大規模生産と技術革新によるコスト低下が普及の鍵を握る。
- 日本の航空業界はSAFにどう対応しているか?
- JALとANAはともに2030年までに使用燃料の10%をSAFに置き換える目標を掲げている。政府も燃料卸売業者への10%義務化を法令化し、3368億円の支援予算を確保した。ただし現時点での国内SAF生産能力は限定的で、当面は海外からの調達が主体となる見通しだ。
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