ニッケル市場の過剰供給 — インドネシアの大増産とLFP電池台頭が招いた需給の逆転
世界のニッケル生産の60%超を担うインドネシアの急拡大が市場を過剰供給に転落させ、価格を歴史的低水準へ押し下げた。EV電池技術の変化と絡み合うニッケル市場の構造的課題を解説する。

はじめに
ニッケルは一時「次世代EVバッテリーの覇権金属」として投資家の熱狂を集めた。リチウムイオン電池の正極材であるNMC(ニッケル・マンガン・コバルト)系電池の大容量化にニッケルが不可欠とされ、2021〜2022年には価格が倍増する局面もあった。しかし、2023〜2026年にかけてニッケル市場は需要見通しの修正と供給の急増が重なり、一転して深刻な過剰供給状態に陥っている [1]。
インドネシアが2023年から2025年にかけて世界最大のニッケル生産国としての地位をさらに固め、世界供給量の60%超を占めるに至った一方で、中国でのEV電池においてニッケルを使わないLFP(リン酸鉄リチウム)電池への移行が想定以上のペースで進んだ [7]。このニつの変化が重なり、LME(ロンドン金属取引所)ニッケル価格は2024年前半に一時1万3,000ドル/トン台まで下落し、多くの西側鉱山企業の採算ラインを下回った。2026年第1四半期時点で価格は1万7,000〜1万8,800ドル/トンのレンジで推移しているが、構造的な供給過剰の解消には至っていない [2]。
インドネシアの支配的地位と低コスト生産
ニッケル生産大国化の軌跡
インドネシアは2019年に未加工ニッケル鉱石の輸出を禁止し、国内でのニッケル下流加工(スラブ、NPI、HPAL方式のMHP混合水酸化物沈殿物)を促す政策を打ち出した。この「鉱物下流化政策」は国内の付加価値向上を目的としたものだったが、同時に中国企業による大規模投資を呼び込む誘引となった [6]。
インドネシアのプラボウォ政権下での鉱物下流化政策が示すように、国内での製錬・電池材料製造にまで生産拠点を引き上げる戦略は、中国資本との合弁によって急速に進展した。スラウェシ島・モルッカ諸島などの鉱山および精錬施設で生産されるNPI(ニッケル銑鉄)とMHP(混合水酸化物沈殿物)の供給量は急拡大し、世界の供給構造を根本から変えた [3]。
コスト優位性と「底値の床」
インドネシアの統合型生産(採掘から精錬まで一貫)は、コスト競争力において他の生産国を大幅に凌駕する。INGの分析では、インドネシアの生産者はニッケル価格が1万2,000〜1万5,000ドル/トンの水準でも採算が取れる構造を持つとされており、これが価格の「底」を形成しつつも、価格の大幅な回復を阻む要因ともなっている [5]。
欧州・オーストラリア・カナダなどの旧来の高コスト生産者は、これらの低価格に耐えきれず生産縮小・鉱山閉鎖・開発プロジェクト延期を相次いで決定している。特にオーストラリアのニッケルスルファイド鉱山は採掘コストが高く、BHPは2024年にニッケル事業の大幅縮小を決定した。供給側のこうした調整が中期的な需給バランスの改善につながる可能性はあるが、インドネシアの生産増加が自動的に代替するため、実質的な供給削減は限定的にとどまっている [6]。
EV電池技術の変化とニッケル需要見通しの修正
LFP電池のシェア急拡大
ニッケル需要の成長シナリオを支えていたのが「高ニッケルNMC電池がEV市場を席巻する」という前提だった。確かに高エネルギー密度が求められる長距離EVにはNMC電池が適しているが、中国市場で普及する低価格・短〜中距離向けEVには、コバルト・ニッケルを使わずリン酸鉄リチウムだけを正極材とするLFP電池が急速にシェアを拡大した [7]。
中国国内のEV電池生産において、NMC系電池のシェアは2024年の25%から2025年前9ヶ月間で18%へと低下した [3]。BYDはLFP電池専門のメーカーとして急成長し、CATL(寧徳時代)もLFP・NMCを並列展開するなか、LFPの価格競争力の高さが中国市場での標準仕様となりつつある。
グローバルEV化の速度鈍化
もう一つのニッケル需要下押し要因が、欧米でのEV普及速度の鈍化だ。EV冬とその後に続く市場構造変化として報告されたように、2024〜2025年にかけて欧州・北米の自動車メーカーはEV向け設備投資を一部延期・縮小した。ニッケル需要の成長シナリオで前提とされていたEV普及台数の達成が遅れる形となり、電池材料の過剰在庫問題も浮上した [5]。
ただし、中長期的にはEVへのシフトは不可逆と見られており、高性能・高航続距離が求められる大型EV・商用EV・電動航空機向けのNMC電池需要が底堅く推移するとの見方もある。問題は「需要の量」よりも「需要の伸びスピードが市場予測から遅れている」点にある。
インドネシアの供給管理の試みと市場の応答
40%減産計画と実効性への疑問
価格低迷を受けてインドネシア政府と主要生産者の間で2025年から供給管理(減産)の議論が起きた。一部報道では40%規模の生産削減計画が浮上したが [7]、実際の減産は限定的にとどまっている。低コスト統合型生産者にとっては、競合他社の高コスト鉱山が閉鎖するまで市場シェアを維持・拡大し続ける経済合理性があり、協調減産には強いインセンティブが働かない。
OPECの産油国協調減産と異なり、ニッケルの鉱山はOPEC型のカルテル構造を持たず、国際的な供給調整メカニズムは存在しない。インドネシア政府が輸出税や採掘割り当ての強化によって供給をコントロールしようとする可能性はあるが、中国資本との利益共有構造がある以上、劇的な供給削減は困難とされる。
ILMEでの価格形成と透明性の問題
2024年のLME(ロンドン金属取引所)でのニッケル取引停止騒動(2022年3月にロシアのニッケル供給不安を受けた急騰・LMEによる取引停止)の記憶が残るなか、ニッケル価格の発見機能と透明性への信頼回復が業界の課題として残っている [4]。インドネシア産MHPの主要取引が中国での相対取引(バイラテラル)で行われることが多く、グローバルなベンチマーク価格との乖離が問題視されている [3]。
注意点・展望
2026年のニッケル市場の需給均衡への回帰は緩やかなものと見込まれる。ING Thinkは2026年の平均価格を1万5,250ドル/トン前後と予測しており [5]、一部アナリストは年末に向けて1万8,500〜2万ドル/トンへの回復を見込む声もある。需要側では、中国・欧州・米国での定置型エネルギー貯蔵(BESS:バッテリーエネルギー貯蔵システム)向けのNMC・NCA電池採用が新たな需要柱として台頭する可能性がある。
また、インドネシアの鉱石品位が漸進的に低下しているという報告もあり [6]、長期的な採掘コスト上昇が供給増加の天井になる可能性がある。ただし、HPA L設備の新規建設が完了するまでは増産余地が残り、2026〜2027年の供給過剰状態は続く公算が大きい。
まとめ
ニッケル市場の過剰供給は「インドネシアの大増産」と「LFP電池台頭によるニッケル需要の伸び鈍化」という二つの構造的要因が重なった結果だ [1]。コバルトの価格崩落と類似した構造的問題を抱えており、コバルトのDRC供給チェーンと電池産業の変容と比較しても、共通するサプライチェーン変容のダイナミクスが見て取れる。高コスト生産国の撤退と市場の自律的な調整が進むまでの間、ニッケル価格の低迷は中期的に続くと見られる。一方で、中長期的なEV普及と定置型蓄電池の大量導入が本格化した際には、ニッケルの需要は再び増勢に転じる構造的理由がある。投資家・資源企業・政府のいずれにとっても、需給サイクルの底打ちタイミングと技術変化の交点を読む眼が問われる市場となっている。
Sources
- [1]Nickel market set to remain in surplus through 2026 - ING
- [2]Nickel Price Update: Q1 2026 in Review
- [3]SMM Analysis: 2025 Nickel Market Recap and 2026 Outlook
- [4]Nickel Price 2025 Year-End Review
- [5]Nickel still capped by surplus - ING THINK
- [6]Indonesia's Supply Squeeze Sparks Nickel Rally
- [7]Nickel Prices in 2025: Indonesia's 40% Supply Cut Plan and EV Market Shifts
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