国際

トランプの薬価引き下げが日本に波及するとき — 新薬が来なくなる国のリスク

米国の最恵国待遇(MFN)薬価政策が日本を参照国に含めたことで、日本の低薬価が逆に新薬の未導入「ドラッグロス」を悪化させる悪循環が懸念されている。

Newscoda 編集部

ドラッグロスとは

「ドラッグロス」とは、欧米など海外で承認された新薬が日本国内で治験や承認申請の着手すらされず、導入の見通しが立たない状態を指す用語である。似た言葉に「ドラッグラグ」があるが、こちらは海外承認から日本承認までの「時間差」を指すのに対し、ドラッグロスは開発着手自体が行われない、より深刻な「導入されない」状態を意味する。

厚生労働省の調査では、2016〜2020年に欧米で承認された新有効成分含有医薬品のうち86品目が、日本国内で開発が未着手のドラッグロス品目として確認された。このうち「開発の必要性が特に高い」とされたのは14品目、「開発の必要性が高い」とされたのは41品目にのぼる[6]。2026年4月には新たな調査で追加の未承認薬が特定されており、対象品目の整理と開発要請は継続的に更新されている[6]。ドラッグロスは特に希少疾病薬や小児用医薬品、新興バイオベンチャー由来の新薬で比率が高いとされ、国内の患者が国際標準の治療選択肢にアクセスできない構造的な問題として、厚労省・中央社会保険医療協議会(中医協)・製薬業界団体が共通の政策課題として取り組んできた。

なぜ悪化するリスクがあるか

米国の薬価政策転換という引き金

2025年5月、トランプ大統領は「米国患者に最恵国待遇(Most Favored Nation, MFN)の処方薬価格をもたらす」とする大統領令に署名した。これは、米国内で消費される医薬品の価格を、他の先進国が実際に支払っている低い価格水準に合わせるよう製薬会社に求める政策である[1][2]。この枠組みのもとで政権は製薬各社との個別交渉を進め、2026年4月にはリジェネロンとの合意を含め計17社との合意に至ったと発表された。同社の主力コレステロール治療薬プラルエントは、直販サイト「TrumpRx」を通じた購入価格が537ドルから225ドルへ、約58%引き下げられる例が示された[1]。

米政権はこれと並行して、医療保険制度メディケイド向けに薬価を引き下げる自主的な参加プログラムや、直販サイト「TrumpRx.gov」を通じた患者向け値引き販売の枠組みも整備しており、2026年4月時点で主要製薬17社超がいずれかの形でMFN関連の合意に応じたとされる。日本の大手製薬会社もこの流れに無関係ではなく、米国事業を持つ企業がメディケイド向け価格モデルへの参加を表明する事例も出ている。

2026年5月に伝えられた分析によれば、MFNのベンチマーク算定には参照国バスケット方式が用いられ、カナダ・デンマーク・フランス・ドイツ・イタリア・日本・スイス・英国を含む複数国の薬価のうち「2番目に低い価格」を基準とする設計が想定されている[3]。価格の外れ値による歪みや、時間経過に伴う急激な変動を避けることが理由とされる[3]。政権側の想定では、この枠組みにより今後10年間で米国内の医薬品純価格が約30%下落し、累計で約5290億ドルの国内節約効果が生まれるとされる[3]。米国の関税政策においても、日本はEU・韓国・スイス・リヒテンシュタインとともに同盟国向けの優遇関税率(15%)が適用される枠組みに位置づけられており、通商・薬価の両面で日本が米政策の参照点として扱われる構図が強まっている。この関税面の動きは米国の製薬関税とサプライチェーンで報じられた供給網再編とも連動しており、通商政策と薬価政策が一体で日本の製薬事業環境に作用している。

日本の薬価水準という前提条件

日本の薬価制度は、新薬収載時に外国平均価格を参照しつつも、2年に1度の薬価改定で市場実勢価格に合わせて引き下げられる仕組みを基本としており、結果として米国と比べて薬価水準が低く抑えられる傾向が指摘されてきた。JPMA(日本製薬工業協会)・PhRMA・EFPIA Japanが2025年12月26日に公表した共同声明は、費用対効果評価制度の対象となった51品目のうち39品目(76%)で薬価が引き下げられたこと、社会保障予算における薬剤費の比率が1割に満たないにもかかわらず予算削減額の7割が薬価引き下げによって生み出されている実態を指摘し、日本の新薬パイプラインにおける早期開発シェアの低下に警鐘を鳴らした[4]。

同声明は、米国のMFN政策が「医薬品の研究開発や各国での上市に関する国際的なインセンティブを大きく変えつつある」と明記し、一国の薬価政策が他国の発売戦略に波及する構造そのものを問題視している[4]。L.E.K.コンサルティングの分析でも、仮に日本が単独でMFNの基準となった場合、米国の実質純価格に対する払い戻し水準は、想定されるモデルによって米国実質価格の40〜80%程度(GENEROUSモデル)から10〜25%程度(GLOBE/GUARDモデルの厳格な適用)まで、幅はあるものの一貫して米国を下回る水準にとどまると試算されている[5]。日本の薬価が米国の参照価格計算に組み込まれる制度が現実化すれば、製薬会社は日本での新薬発売価格を抑えるほど、収益の柱である米国市場での薬価も連動して下押しされるという構造的なジレンマに直面する。

誰が影響を受けるか

患者・医療現場への影響

ドラッグロスが悪化した場合、最も直接的な影響を受けるのは希少疾病や難治性がん、小児疾患などの患者である。海外では標準治療として確立された医薬品が日本国内では治験すら開始されず、患者が国内で治療選択肢を得られない状態が続く。医療現場では、海外の治療ガイドラインと国内の実診療との乖離が広がり、患者が個人輸入や海外渡航治療といった限られた手段に頼らざるを得ないケースも生じている。特にバイオ医薬品や新興バイオベンチャー由来の新薬は、大手製薬会社に比べて限られたリソースの中で発売国を絞り込む傾向が強く、日本が優先順位の低い市場と位置づけられればロスの深刻化は避けにくい。

臨床現場では、国際共同治験に日本の医療機関が参加できるかどうかが、患者が最新の治療にアクセスできるかを左右する実務上の分岐点になっている。治験の対象にすら入らない品目は、承認前の治験参加という形での早期アクセスの道すら閉ざされるため、患者団体や学会からは、価格交渉の帰結を待つ前段階で治験参加の裾野を広げるべきだとの声も上がっている。高齢化に伴い医療費全体が膨張する中で、薬剤費だけを切り離して抑制する政策の限界も指摘されており、この論点は日本の医療財政負担で論じた社会保障財政の構造的圧力とも接続している。

製薬企業の投資判断への影響

グローバル製薬企業にとって、新薬の発売国選定は限られた開発・薬事リソースの配分問題である。米国市場での収益確保が経営上の最優先事項である以上、日本での低薬価が米国での実現可能価格に波及するリスクが明確になれば、企業は日本を早期発売国リストから外し、他の主要市場での発売実績や交渉材料が固まった後に日本市場参入を検討する、という後回し戦略を強める可能性がある。これは新興バイオベンチャーだけでなく、大手製薬会社の投資判断にも及び得る。世界的な特許切れの波が進む中で研究開発投資の選択と集中が求められている現状も、この判断を後押しする一因になり得る。この文脈は世界の製薬業界パテントクリフで扱った研究開発資源の再配分圧力とも重なる部分がある。なお、日本国内の後発医薬品市場を巡る薬価制度の見直しは新薬のドラッグロス問題とは異なる論点として並行して進んでおり、両者を混同しないことが重要である。

今後どうなるか

短期(数か月〜1年)の見通し

短期的には、米国のMFN協定締結企業数の拡大と、それに伴う日本を含む参照国バスケットの運用実態が焦点となる。JPMAは米国MFN政策への対応を検討するタスクフォースを設置しており、業界側は日本の薬価制度改革の議論に米国側の動向を反映させる働きかけを強めるとみられる。中医協では2026年度の薬価制度改革が既に決定しており、新薬の評価軸に迅速導入加算などの項目を組み込む方向性が示されている。ただし、これらの制度改正がMFNの波及効果を打ち消すほどの薬価引き上げにつながるかは不透明であり、当面は個別品目ごとに発売延期・断念の判断が積み重なる展開が想定される。

中長期(1〜3年)の構造変化と厚労省の対応

中長期的には、厚労省が国際共同治験の迅速化に向けた制度整備を進めている点が鍵となる。複数の医療機関の治験審査を一括して行う体制の構築により、国際共同治験の実施件数を増やし、日本が海外の開発初期段階から治験に組み込まれる比率を高める取り組みが進行中である[7]。これは、発売後に薬価交渉で不利になる前段階、すなわち開発着手の時点で日本を排除させない狙いを持つ。加えて未承認薬等迅速解消促進調査事業を通じて、開発の必要性が高い品目への企業への開発要請や公募が継続的に行われている[6]。

薬価制度面では、2026年度の中医協改革で新薬の評価軸に迅速導入加算などの項目が組み込まれ、革新性の高い新薬や小児用医薬品・希少疾病用医薬品への加算がつきやすくなる方向性が示されている。ただし、こうした加算は個別品目の評価を上積みするミクロな調整であり、外国平均価格算定や2年に1度の実勢価格改定という薬価制度全体の骨格を変えるものではない。米国のMFN政策が参照国バスケットの運用を本格化させ、日本の薬価がより直接的に米国側の価格算定に組み込まれるようになれば、加算制度による部分的な底上げだけでは相殺しきれない構造的な下押し圧力が残り続ける可能性が高い。

もっとも、これらの施策は治験参加のハードルを下げる効果は見込めても、薬価水準そのものを米国並みに引き上げるものではない。米国がMFNの実効性を高めるほど、日本の低薬価が米国市場の価格に波及するリスクは構造的に残り続ける。日本総合研究所などの分析では、ロス加速を回避するための一案として、少なくとも国際的に最も低い水準にある品目については、次に低い国の水準まで薬価を引き上げる必要性が指摘されている。薬価制度の抜本的な見直しと国際治験環境の整備を両輪で進められるかが、今後1〜3年のドラッグロス動向を左右するとみられる。

Newscoda の見方

本サイトが注目するのは、米国の薬価政策が「自国の薬価を下げる」という国内問題にとどまらず、参照国バスケットという制度設計を通じて他国の薬価決定に間接的な拒否権を持つ構図に転じつつある点である。日本は長らく「薬価が低い市場」として企業から評価されてきたが、その低さ自体が米国の参照価格を通じて逆流し、日本市場そのものの魅力を一段と削ぐという因果の逆転が起きつつある。

他の論調の多くは日本の薬価制度改革や治験環境整備を「国内対策」として論じる傾向が強いが、本サイトはこれを米国発の対外政策スピルオーバーとして捉える視点を重視する。国内の薬価引き上げ余地は、中医協の予算制約と表裏一体であり、米国側の政策変数を無視した議論では実効性を欠く可能性が高い。

今後6〜12か月で観察すべき変数は以下の通り。

  • 米国MFN協定の締結企業数と、参照国バスケットにおける日本の価格の実際の反映状況
  • JPMA・PhRMA・EFPIA Japanの共同声明が2026年度以降の薬価制度改革にどこまで反映されるか
  • 迅速導入加算の適用実績と、対象品目の発売判断への影響
  • 国際共同治験の一括審査体制の運用実績と参加件数の推移
  • 日本国内での新薬発売見送り・撤退の具体的な公表事例の増減

まとめ

米国のMFN(最恵国待遇)薬価政策は、参照国バスケットに日本を含む形で設計されつつあり、日本の低い薬価水準が米国市場での実現価格を押し下げる要因になり得るとの懸念が業界団体から示されている。これにより、製薬企業が日本での新薬発売を後回しにする、あるいは見送るインセンティブが強まり、既に86品目超が確認されているドラッグロスがさらに悪化するリスクが指摘される。厚労省は迅速導入加算や国際共同治験の迅速化といった制度対応を進めているが、薬価水準そのものを引き上げる抜本的な見直しには至っておらず、米国の政策運用実態と日本の制度改革がどう噛み合うかが、今後のドラッグロス動向を左右する構図になっている。

Sources

  1. [1]Fact Sheet: President Donald J. Trump Announces Deal with Regeneron to Bring Most-Favored-Nation Pricing to American Patients — The White House
  2. [2]Most-Favored-Nation Drug Pricing Policy: Executive Actions, Manufacturer Agreements, and Growing Congressional Scrutiny — Sidley Austin LLP
  3. [3]Most-Favored-Nations Drug Pricing Policy: White House Quietly Releases Report Describing Voluntary MFN Deals — GoodLifeSci (Sidley Austin)
  4. [4]Joint Statement on Need for FY2026 NHI Drug Pricing and Cost-Effectiveness Assessment System Reform — PhRMA 米国研究製薬工業協会
  5. [5]An Inconvenient Truth? Japan, Innovation, Drug Pricing, MFN — L.E.K. Consulting
  6. [6]ドラッグ・ロス解消に向けた取組について — 厚生労働省
  7. [7]臨床研究・治験の活性化について — 厚生労働省

よくある質問

ドラッグロスとドラッグラグはどう違うのか
ドラッグラグは海外で承認された新薬が日本でも承認されるが、その時期が遅れる現象を指す。ドラッグロスはさらに深刻で、日本国内での治験や承認申請そのものが着手されず、当面あるいは長期にわたり導入の見通しすら立たない状態を指す。近年は希少疾病薬やバイオベンチャー由来の新薬でロスの比率が高い。
米国のMFN(最恵国待遇)薬価政策とは何か
2025年5月の大統領令に基づき、米国内の薬価を他の先進国が支払う低い価格水準に合わせることを製薬会社に求める政策。カナダ・デンマーク・フランス・ドイツ・イタリア・日本・スイス・英国などを含む参照国バスケットのうち2番目に低い価格を基準とする仕組みが想定されている。
なぜ日本の低薬価がドラッグロスを悪化させるとされるのか
製薬会社が主要収益源である米国市場でMFNにより価格引き下げ圧力を受ける中、日本のように薬価水準が低い市場で新薬を発売すると、その価格が米国の参照価格に組み込まれ、米国での実現可能価格をさらに押し下げる懸念があるため。結果として日本を発売対象から外す判断が生まれやすくなるとされる。
厚労省はドラッグロス対策としてどのような制度を導入しているか
令和8年度薬価制度改革で新薬に対する迅速導入加算などの評価項目を拡充したほか、国際共同治験の複数医療機関一括審査による迅速化、未承認薬等迅速解消促進調査事業を通じた開発要請の迅速化を進めている。

関連記事

最新記事