カスハラ対策、全企業に義務化 — 2026年10月施行が問う職場の境界線
改正労働施策総合推進法により2026年10月、企業規模を問わずカスタマーハラスメント対策が義務化される。制度の骨格と、正当なクレームとの線引きに悩む現場の実態を整理する。
カスタマーハラスメントとは
「カスハラ」という略称で広く知られるようになったカスタマーハラスメントは、顧客・取引先・施設利用者等からの言動であって、社会通念上相当な範囲を超え、労働者の就業環境を害するものを指す [3]。暴言や威圧的な態度、土下座の強要、長時間にわたる拘束、過大な金銭要求、SNSでの実名晒しといった行為が典型例とされる。単なる強い口調のクレームと、就業環境を実質的に害する迷惑行為との境界をどこに引くかが、制度設計上の最大の論点となってきた。
2025年6月に成立した改正労働施策総合推進法(令和7年法律第63号)は、事業主に対してカスタマーハラスメント防止のための雇用管理上の措置を義務づけるものであり、2026年10月1日に施行される [1]。これまでパワーハラスメント・セクシュアルハラスメントについては既に事業主の措置義務が法定化されていたが、顧客等の第三者に起因するハラスメントへの対応が明確に義務化されるのは今回が初めてとなる。従来の枠組みでは、加害者が「社内の人間」であることを前提に制度設計がなされてきたため、顧客という「社外の第三者」からの迷惑行為に対しては、企業の自主的な対応に委ねられる部分が大きかった。
対象となる行為の判断基準は、顧客等に起因する言動であること、社会通念上相当な範囲を超えていること、労働者の就業環境が害されることの三要件がすべて満たされる場合とされる [3]。消費者の正当な指摘や改善要求そのものは制限の対象ではなく、あくまで社会的相当性を逸脱した言動のみが規制対象となる枠組みが採用されている。この三要件アプローチは、パワーハラスメントの法的定義と構造的に類似しており、企業の実務担当者にとっては既存のハラスメント対応の枠組みを応用しやすい設計になっているとされる。
なぜ義務化されたか
現場からの長年の要請
カスハラ規制の法制化は一朝一夕に実現したものではない。労働組合UAゼンセンなどが約10年にわたり継続してきた実態調査とロビー活動が、今回の法改正の土台を形成したとされる [5]。小売・外食・運輸・医療・自治体窓口など、対面での接客業務を担う労働者の間でカスハラ被害は以前から指摘されてきたが、明確な法的定義と事業主の義務がないまま、個々の企業の自主的な対応に委ねられてきた経緯がある。UAゼンセンが実施してきた組合員向けアンケートでは、暴言や威圧的態度を経験した労働者の割合が高水準で推移してきたことが繰り返し報告されており、これが政府・厚生労働省の審議会における議論を後押しする材料となった。
自治体条例の先行
国の法整備に先立ち、東京都は2024年10月にカスタマー・ハラスメント防止条例を都議会で可決し、2025年4月1日に施行した [2]。同条例は都・顧客・労働者・事業者それぞれの責務を明確化し、カスハラを都内のあらゆる場所において禁止する内容を含むが、刑事罰は設けていない。もっとも、行為の態様によっては暴行罪・強要罪・名誉毀損罪など既存の刑事法規に抵触しうる旨が条例のQ&Aで明示されており、条例そのものは規範の宣言にとどめつつ、悪質な行為には既存の刑事司法の枠組みで対応するという二段構えの設計になっている。北海道・群馬県など複数の自治体でも同時期に同様の条例が施行され、三重県は罰則付きの条例制定を検討するなど、自治体レベルでの規範整備が国の法改正を後押しする形となった。
自治体ごとに規範の強さが異なる状況は、企業にとって「本社所在地の条例」と「店舗展開先の条例」が異なりうるという実務上の複雑さも生んでいる。全国chainを展開する小売・外食企業は、進出先ごとに異なる条例の内容を把握したうえで、全社共通の対応方針に落とし込む必要があり、これが今回の国レベルでの法整備を求める経済界からの要望にもつながったとされる。
厚生労働省ガイドラインの策定
厚生労働省は2025年12月に指針案を公表し、2026年2月26日に「職場におけるカスタマーハラスメント対策に関する指針」を正式に策定した [1][4]。指針では、方針の明確化・周知、相談体制の整備、発生時の対応手順、被害者への配慮とプライバシー保護などが具体的に示されており、企業が就業規則やマニュアルを整備する際の実務的な参照点となっている。指針には、電話対応時の録音実施や、悪質なクレーマーに対する取引・サービス提供の謝絶を検討する旨の記載も含まれており、従来「お客様は絶対」とされがちだった商慣行からの転換を促す内容になっている。
誰が影響を受けるか
全事業者が対象、猶予措置なし
改正法の適用範囲は、従業員を一人でも雇用する事業者すべてに及び、企業規模による適用除外や経過措置は設けられていない [4]。これは中小企業にとって大きな実務負担となる可能性がある。東京都の調査では、対応指針を策定済みの企業は約4割にとどまり、6割の企業が未対応との結果が示されている。人手や専門人材が限られる中小事業者ほど、相談窓口の設置や対応マニュアルの整備が後回しになりやすい構造的な課題が浮かび上がっている。中小企業における取引適正化を扱った下請法改正の議論と同様に、規模の小さい事業者ほど新たな法的義務への対応コストが相対的に重くのしかかる構図がここでも見られる。
業種別の負荷の違い
対人接客の頻度が高い小売・飲食・宿泊・運輸・コールセンター・医療福祉・行政窓口などの業種では、カスハラ発生の絶対数が多く、対応体制整備の優先度が特に高いとされる。東京商工リサーチなどの調査でも、宿泊業・その他サービス業・製造業(自動車部品等)で従業員からの相談件数が相対的に多いとの傾向が示されている。一方で、BtoB取引が中心の製造業や専門サービス業では、直接の消費者接点は限定的であるものの、取引先担当者からの過度な要求といった形でカスハラに類する事象が生じうるため、業種を問わず一律に義務が適用される制度設計となっている。
行政窓口や医療・介護の現場では、サービスの公共性ゆえに「利用者を選べない」という制約があり、民間の小売・外食業とは異なる難しさを抱える。自治体職員や医療従事者向けには、警察OBの配置や複数人対応の徹底といった、業界特性に応じた対応策の検討も進められている。
労働者への保護規定
改正法には、カスハラに関する相談を行った労働者や、事実確認に協力した労働者に対して、事業主が解雇その他不利益な取扱いをしてはならないとする規定も含まれる [5]。相談したことを理由とした配置転換や評価上の不利益が禁止されることで、労働者が声を上げやすい環境整備が制度的に担保される形となっている。人事管理制度の見直しが進む高齢者雇用の文脈とも通じるように、労働者保護と組織運営の両立が今回の制度設計における核心的な論点となっている。
今後どうなるか
短期(2026年後半〜2027年)の見通し
2026年10月の施行に向け、各業界団体・企業では就業規則の改定、相談窓口の設置、従業員向け研修の実施が急ピッチで進むとみられる。厚生労働省の指針は法的拘束力を持つ最低基準というより実務指針としての性格が強く、業種ごとのガイドライン整備や好事例の共有が今後の焦点となる。行政指導の対象となった場合、報告命令・助言・指導・勧告・企業名公表という段階的な措置が予定されており、初期の運用実態が今後の実効性を左右する。とりわけ、施行直後にどのような事例が「勧告」や「企業名公表」の対象となるかが、他の企業にとっての実務上の目安となるため、注視すべき局面となる。
中長期(2027年以降)の構造変化
中長期的には、カスハラ対応の巧拙が労働市場における企業の評価軸の一つとなる可能性がある。人手不足が慢性化する対人サービス業種において、従業員保護体制の有無が採用競争力や離職率に直結するとの見方もある。退職代行サービスの利用理由として「ハラスメントを受けた」「相談できる環境がなかった」との回答が一定割合を占めることを踏まえると、早期離職や退職代行サービス急増の背景にある組織的課題とあわせて考えると、労働者の心理的安全性を軸にした職場環境整備が、今後の人材確保戦略における重要な変数として位置づけられていく可能性がある。
さらに、悪質なクレーマーへの対応として、企業がサービス提供や取引そのものを拒否する「NGカスタマー」の運用が広がるかどうかも注目点となる。海外では既に一部の航空会社や小売事業者が悪質顧客のブラックリスト運用を行っており、日本でも業界団体単位での情報共有の枠組みが今後整備される可能性がある。
Newscoda の見方
本サイトとして注目するのは、今回の法改正が単なる「クレーム対応マニュアルの整備」にとどまらず、企業と労働者の間の力学、さらには企業と消費者の間の力学そのものを再定義する契機になり得るという点だ。カスハラの定義に「社会通念上相当な範囲」という規範的な判断基準が組み込まれていることは、今後の運用において何が正当な指摘で何が過度な要求かという線引きを巡る議論が継続することを意味する。
多くの解説は義務化の内容そのものに焦点を当てるが、Newscoda としては、中小企業における実務対応能力の格差が、法の実効性を左右する最大の変数になると考える。人手と専門知識が限られる小規模事業者が、相談窓口の設置や研修実施をどこまで形式的でなく実質化できるかが、制度の成否を分ける。また、自治体条例と国の法律という二重構造のもとで、全国展開する企業がどのように統一的な対応方針を構築するかも、実務上の重要な論点として残り続けるとみられる。
今後6〜12か月で観察すべき変数:
- 2026年10月施行後の行政指導・企業名公表事例の有無と件数
- 業界団体によるカスハラ対応ガイドラインの整備状況
- 中小企業における相談窓口設置率の推移
- カスハラを理由とした労災認定・訴訟事例の動向
- 東京都以外の自治体における罰則付き条例制定の広がり
まとめ
2026年10月に施行される改正労働施策総合推進法は、企業規模を問わずカスタマーハラスメント対策を雇用管理上の義務として課す、日本で初めての法整備となる。東京都をはじめとする自治体条例の先行と、労働組合による長年の実態調査が土台となり、厚生労働省の指針策定に結実した経緯がある。全事業者が対象となる一方、中小企業における対応体制の整備は道半ばであり、正当なクレームとカスハラの線引きという実務上の難題も残る。施行後の運用実態が、この新しい制度の実効性を占う試金石となる。
Sources
- [1]厚生労働省 — 令和7年労働施策総合推進法等の一部改正について
- [2]東京都例規集 — 東京都カスタマー・ハラスメント防止条例
- [3]政府広報オンライン — カスハラとは?法改正により義務化されるカスハラ対策の内容
- [4]The Japan Times — 40 years on, Japan steps up fight against workplace harassment
- [5]UNI Global Union — Japan issues new guidelines to tackle customer harassment
- [6]労働政策研究・研修機構(JILPT)— カスタマーハラスメント対策を巡る動向
よくある質問
- カスタマーハラスメント(カスハラ)とは法律上どのように定義されるのか?
- 顧客等の言動であって、社会通念上相当な範囲を超え、労働者の就業環境を害するものと定義される。具体的には暴言・威圧的な言動・過大な要求・長時間の拘束・土下座の強要・SNSでの誹謗中傷などが典型例とされ、顧客に起因する言動であること、社会通念上の相当性を欠くこと、就業環境を害することの三要件がすべて満たされる場合にカスハラと判断される。
- 2026年10月の義務化により、企業は具体的に何を実施しなければならないのか?
- 改正労働施策総合推進法に基づき、事業主にはカスハラに厳正に対応し従業員を守るという方針の明確化、周知、相談窓口の設置、発生時の迅速かつ適切な対応が雇用管理上の措置義務として課される。従業員一人でも雇用していれば企業規模を問わず対象となり、中小企業への猶予期間も設けられていない。
- なぜ東京都をはじめとする自治体が国に先行してカスハラ防止条例を制定したのか?
- 国の法整備に先立ち、東京都は2024年10月にカスタマー・ハラスメント防止条例を可決し2025年4月に施行した。刑事罰は設けていないものの、行政として初めてカスハラを明確に禁止する規範を示すことで、企業の対応指針づくりを後押しする狙いがあったとされる。北海道・群馬など他の自治体でも同時期に同様の条例施行が相次いだ。
- 顧客からの正当なクレームとカスハラとの線引きは、実務上どのように判断されるのか?
- 消費者の正当な指摘や改善要求はサービス向上に資するものであり、制限の対象ではないとされる。判断は行為の態様・頻度・執拗さ・要求内容の妥当性を総合的に考慮して行われるべきとされ、単に強い口調であることのみをもってカスハラと即断しない運用が求められている。この線引きの実務的難しさが、中小企業における対応の遅れの一因となっている。
関連記事
- オピニオン
22年ぶり下請法改正が問う日本経済の「価格転嫁」能力 — 中小企業の自立とサプライチェーン再設計
2026年1月施行の下請代金法等の大幅改正は、日本の取引慣行に22年ぶりの抜本的変革をもたらした。公正取引委員会の執行強化と新規定が中小企業の価格転嫁力をどう変えるかを論じる。
- オピニオン
日本同族企業の事業承継危機 — 70万社の後継者問題と「廃業の経済コスト」を試算する
経済産業省の試算では、後継者未定の中小同族企業は2026年で約70万社、潜在的廃業リスクは年間8〜10万社。GDP寄与・雇用・地域経済への影響を試算し、M&A・PE参入・地域連携の三軸での対応策を論じる。
- ビジネス
2026年春闘の二極化が示す構造問題 — 大企業5.4%・中小企業3.1%の賃上げ格差は何を意味するか
連合の2026年春闘第6回集計で確定した平均賃上げ率5.4%は3年連続の歴史的水準。一方で中小組合では3.1%にとどまり、規模間格差が拡大した。背景にある価格転嫁の構造と労働市場の歪みを論じる。
最新記事
- ビジネス
「辞める」を代行する業界の膨張 — 日本企業の組織論に何を突きつけるか
退職代行サービスの利用者が急拡大し、100社超が乱立する状況となった。「辞めさせない会社」問題が浮かび上がらせる日本企業の組織運営・人事戦略の構造的課題を読み解く。
- マーケット
火災保険料はなぜ上がり続けるのか — 家計と損保業界に走る構造変化
参考純率の相次ぐ引き上げと水災料率の地域細分化により、日本の火災保険料は過去10年で複数回の値上げを重ねてきた。制度変更の構造と家計・住宅市場への波及を整理する。
- 国際
観光地の「二重価格」は差別か持続策か — 世界の潮流と日本の選択を比較する
ルーブル美術館や姫路城など世界各地で広がる住民・訪問者間の価格差設定。海外の先行モデルと日本の制度設計を比較し、オーバーツーリズム対策としての妥当性を検証する。