治療しながら働くという当たり前を、制度がようやく追いかけ始めた
2026年4月、改正労働施策総合推進法の施行により治療と仕事の両立支援が事業主の努力義務となった。制度化の背景にある就労実態の統計データと、企業に求められる対応の内容を整理して解説する。
はじめに
2026年4月1日、改正労働施策総合推進法の施行により、「治療と仕事の両立支援」がすべての企業にとっての努力義務となった。がんや慢性疾患の治療を受けながら働き続ける労働者への支援体制整備を、企業に求める内容である。これまで任意の取り組みとされてきた両立支援が、法的根拠を持つ経営課題として位置づけられる転換点といえる。
この制度化の背景には、医療の進歩によって「治療しながら働く」ことが特別な例外ではなく、多くの労働者にとって現実的な選択肢になったという構造変化がある。かつては、がんをはじめとする重い疾病の診断を受けた労働者が離職を選ぶことは珍しくなかった。しかし通院治療や外来化学療法が普及し、入院を伴わずに治療を継続できるケースが増えるなかで、「治療か仕事か」という二者択一ではなく、両立を前提とした働き方の設計が現実的な課題として浮上している。高齢化が進む労働市場において、高齢者雇用政策が直面する限界とも通底する論点であり、労働力人口の確保という観点からも重要性を増している。
制度の中身 — 何が変わるのか
改正労働施策総合推進法の要点
2025年6月、労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律等の一部を改正する法律が公布された。この改正法には、カスタマーハラスメント対策の強化とあわせて、治療と仕事の両立支援に関する規定が盛り込まれている[1]。同じ法律改正の枠組みで扱われたカスタマーハラスメント対策の詳細は、カスタマーハラスメント対策の義務化が迫るで扱っている。両立支援に関する規定は2026年4月1日に、カスタマーハラスメント対策に関する規定は2026年10月1日に、それぞれ段階的に施行される。
努力義務の具体的な内容
改正法では、事業主に対し「疾病、負傷その他の理由により治療を受ける労働者について、就業によって疾病又は負傷の症状が増悪すること等を防止し、その治療と就業との両立を支援するため、当該労働者からの相談に応じ、適切に対応するために必要な体制の整備その他の必要な措置を講ずるよう努めなければならない」と定めている[1]。「努力義務」であるため罰則はないが、行政指導や企業の社会的評価に影響しうる規定として位置づけられる。
この努力義務を実効性あるものにするため、厚生労働省は2025年8月22日に「第1回治療と仕事の両立支援指針作成検討会」を開催した。2016年に策定した「事業場における治療と仕事の両立支援のためのガイドライン」を、より法的根拠を持つ「指針」へと格上げする作業が進められている[4]。ガイドラインから指針への格上げは、単なる名称変更ではなく、行政上の位置づけを強化し、企業への実効性ある働きかけを可能にする意味を持つ。
法律の条文自体は抽象度の高い「体制の整備その他の必要な措置」という表現にとどまっており、具体的に企業が何をすべきかは、今後策定される指針が定めることになる。この構造は、法律で大枠の努力義務を課したうえで、実務上の詳細を下位の指針・ガイドラインに委ねるという、労働関連法規でしばしば採られる手法であり、ハラスメント防止措置などでも同様の枠組みが用いられてきた。
なぜ今、法制化されたのか
治療しながら働く人の増加という実態
制度化の背景には、具体的な統計データがある。がん治療のため通院しながら働いている人は、令和4年の「国民生活基礎調査」を基にした推計で男性19.2万人、女性30.7万人、合計49.9万人にのぼる[3]。また、がん患者の約3人に1人は20代から60代の就労世代で罹患しており、多くが診断後も就業を継続する必要に迫られる[2]。
一方で、離職の実態も深刻だ。がんと診断された就労者のうち19.8%が退職・廃業しており、そのうち半数以上にあたる56.8%が、初回治療を開始する前の段階で離職している[2]。診断直後の情報不足や不安から、治療の見通しが立つ前に離職を選んでしまうケースが多いことを示唆しており、この「治療前離職」をいかに防ぐかが、両立支援制度の実務上の焦点となっている。
この構造は、労働者本人にとっても企業にとっても望ましくない結果を招きやすい。労働者側からみれば、治療費がかさむ時期に収入を失うという二重の負担を強いられ、経済的な不安が治療そのものへの影響を及ぼしかねない。企業側からみても、経験を積んだ人材を疾病を理由に失うことは、採用・育成コストの損失であり、慢性的な人手不足のなかでは無視できない経営リスクである。両者にとって不利益な「治療前離職」が構造的に生じている点こそが、行政が制度介入に踏み切った実質的な理由といえる。
政策の系譜 — ガイドラインから指針へ
治療と仕事の両立支援という政策課題は、今回の法改正で突然登場したものではない。2017年3月の「働き方改革実行計画」、2018年3月の「第3期がん対策推進基本計画」といった政策文書のなかで、一貫して重要課題として位置づけられてきた[2]。2016年には前述のガイドラインが策定され、がん診療連携拠点病院等における相談支援体制の強化や、両立支援コーディネーターの育成・配置、患者・医療機関・企業の間で情報共有を行う「治療と仕事両立プラン」の活用促進といった施策が積み重ねられてきた[2][5]。
今回の法制化は、こうした10年近くにわたる任意の取り組みの蓄積を土台に、法的根拠を持つ枠組みへと引き上げる動きと理解できる。治療と仕事の両立支援を専門的に論じる医学界の研究でも、両立支援コーディネーターが患者・医療機関・職場の「通訳者」としての役割を担い、円滑な情報共有と相談支援を実現する存在として位置づけられている[5]。
企業に求められる対応
相談体制の整備
改正法が求める「必要な体制の整備」の中身は、今後策定される指針でより具体化される見通しだが、現時点で想定される対応としては、労働者からの相談窓口の設置、治療スケジュールに応じた勤務形態の調整(時差出勤・時短勤務・在宅勤務等)、産業医・保健師との連携体制の構築などが挙げられる。特に、診断直後の情報不足による「治療前離職」を防ぐには、診断を受けた労働者ができるだけ早期に会社側と相談できる窓口の存在が重要になる。
医学界の研究でも、両立支援コーディネーターが患者・医療機関・職場の三者の間に立ち、治療の見通しや必要な配慮事項を分かりやすく伝える「通訳者」としての役割を担うことの重要性が指摘されている[5]。労働者本人が医学的な情報を人事担当者にうまく説明できないケースや、逆に企業側が疾病に関する知識不足から過度に慎重な対応を取ってしまうケースなど、当事者間の情報の非対称性を埋める専門人材の存在が、両立支援の実効性を左右する。
中小企業が直面する課題
法律上の努力義務は企業規模を問わず適用されるが、実務上の負担は中小企業にとって相対的に重い。産業医を独自に確保することが難しい中小企業では、都道府県ごとに設置されている産業保健総合支援センターの無料相談や、両立支援コーディネーターの外部活用など、公的支援の枠組みを利用することが現実的な選択肢となる。人手不足が深刻化するなかで、治療を理由に貴重な人材を失うことは、企業にとっても経営上のリスクであり、両立支援への投資は人材確保策としての側面も持つ。
大企業であれば、人事部内に専任担当者を置いたり、独自の休暇制度・時短勤務制度を整備したりする余地があるが、中小企業では一人の従業員が複数の役割を兼ねているケースも多く、長期の勤務調整そのものが業務運営に直接影響しやすい。そのため、指針の策定にあたっては、大企業を念頭に置いた理想的な体制像だけでなく、中小企業でも実行可能な最低限の対応水準を明確に示すことが、努力義務の実効性を左右する重要な要素になるとみられる。
注意点・展望
今回の制度化には、いくつかの留意点がある。第一に、努力義務であるため、体制整備が不十分な企業への強制力は限定的である。指針の内容がどこまで具体的な行動基準を示すかが、実効性を左右する。第二に、対象となる疾病はがんに限らず、糖尿病・心疾患・メンタルヘルス不調など幅広い。がん患者の就労実態を中心に議論が進んできた経緯があるため、他疾患への目配りが指針にどこまで反映されるかも注目点となる。第三に、治療と仕事の両立は労働者本人のプライバシーに関わる機微な情報を伴うため、相談体制の整備と個人情報保護の両立をどう図るかという実務上の課題も残る。
さらに、育児や介護との両立支援が既に一定程度制度化されている一方、疾病治療との両立支援は制度的な後発分野にあたる。育児・介護休業制度が数十年かけて整備されてきた経緯を踏まえれば、今回の努力義務化は制度整備の「入り口」に過ぎず、相談体制の整備から、休暇制度・勤務形態の柔軟化、給付面の支援まで、段階的に制度が積み上げられていく可能性が高い。男性育休の企業対応をめぐる時系列が示すように、努力義務からより強い規制へと段階的に移行していくパターンは、日本の労働法制で繰り返し見られてきたものであり、今回の両立支援制度も同様の道をたどる可能性がある。
今後は、厚生労働省が策定する指針の内容とともに、実際に企業がどこまで相談体制を整備できるかという実行段階の課題が焦点になる。
Newscoda の見方
本サイトとして注目するのは、この制度化が単なる福利厚生の充実策ではなく、労働力人口の減少という構造的な問題への対応策として位置づけられている点だ。治療をしながら働き続けられる環境を整えることは、疾病を理由とした人材流出を防ぎ、限られた労働力を最大限に活用するという意味で、人手不足に直面する日本企業にとって合理的な経営判断でもある。
多くの報道は「努力義務化」という制度面の変化そのものに焦点を当てがちだが、Newscodaとしては、診断後の「治療前離職」が離職全体の過半数を占めるという統計が示す、情報提供のタイミングの重要性を重視する。相談体制の整備が功を奏するかどうかは、労働者が最も不安を抱える診断直後の段階でどれだけ迅速に会社側の支援につながれるかにかかっており、制度の実効性はこの初動対応の速さで測られることになるだろう。
今後6〜12か月で観察すべき変数:
- 厚生労働省が策定する「治療と仕事の両立支援指針」の具体的な内容
- 産業保健総合支援センターへの相談件数・利用実績の推移
- 中小企業における両立支援コーディネーター活用の広がり
- がん以外の疾病(糖尿病・心疾患・メンタルヘルス等)への支援拡大の議論
まとめ
2026年4月に施行された改正労働施策総合推進法により、治療と仕事の両立支援が事業主の努力義務となった。背景には、治療しながら働く労働者が49.9万人にのぼる一方、診断後の離職者の半数以上が治療開始前に離職しているという実態がある。2016年のガイドライン策定から10年近くを経て、任意の取り組みが法的根拠を持つ枠組みへと引き上げられた今回の制度化は、労働力人口の減少に直面する日本企業にとって、治療と仕事の両立を人材確保策として捉え直す契機になるとみられる。制度の実効性は、今後策定される指針の具体性と、中小企業を含めた現場での運用にかかっており、努力義務という緩やかな規制がどこまで実質的な行動変容を促せるかが、次の制度改正論議の材料になっていくだろう。
Sources
よくある質問
- 治療と仕事の両立支援の努力義務化はいつから正式に施行されるのか?
- 改正労働施策総合推進法の施行により、2026年4月1日からすべての企業に対して努力義務となる。2025年6月に公布された同法改正には、カスタマーハラスメント対策なども併せて盛り込まれている[1]。
- 改正法により事業主に具体的にどのような対応が求められるのか?
- 疾病・負傷等により治療を受ける労働者について、就業により症状が増悪することを防ぎ治療と就業の両立を支援するため、労働者からの相談に応じ適切に対応する体制の整備など、必要な措置を講じるよう努めることが求められる[1]。
- この制度で支援の対象となる労働者はがん患者に限定されるのか?
- 法律上の対象は「疾病、負傷その他の理由により治療を受ける労働者」全般であり、がんに限らず糖尿病や心疾患、メンタルヘルス不調なども含まれる。ただし制度整備の議論はがん患者の就労実態を主な出発点として進んできた経緯がある[2][5]。
- 従業員数の少ない中小企業も大企業と同水準の両立支援対応を求められるのか?
- 法律上の努力義務は企業規模を問わず適用されるが、体制整備の実務負担は中小企業にとって相対的に重い。両立支援コーディネーターの活用や産業保健総合支援センターによる無料相談など、外部支援の活用が想定されている[5]。
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