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「指標の羅列」から「戦略連動」へ ― 人的資本開示ルール刷新の要点と上場企業の対応課題

金融庁は人的資本開示の指針を改定し、指標の羅列ではなく経営戦略との連動を企業に求める方針へ転換した。有価証券報告書の記載を一本化し、ISSB基準との整合性拡充も進む中、投資家が期待する開示の中身と企業実務への影響を整理する。

Newscoda 編集部

人的資本開示の刷新とは

金融庁は内閣官房・経済産業省と共同で、2026年3月23日付で人的資本開示に関する指針を改定し、英語版を同年4月9日に公表した [1]。改定後の指針「Strategy-Focused Human Capital Disclosures」は、二部構成をとる。第1部は事業戦略と人的資本経営戦略の整合性、第2部はISSB(国際サステナビリティ基準審議会)が定めるIFRS S1、あるいは日本のSSBJ(サステナビリティ基準委員会)基準が求めるガバナンス・戦略・リスク管理・指標と目標という四つの構成要素に基づく開示を扱う [2]。

指針が示す核心的な区別は、「指標重視型(Metrics-Focused)」と「戦略重視型(Strategy-Focused)」という二つの開示の型だ。前者は従業員数や離職率など、あらかじめ定義された比較可能な指標を並べる開示手法であり、GRIスタンダードなどが典型とされる。後者は企業固有の事業戦略・ビジネスモデルを起点に、それを実現するために必要な人材像(Vision of Optimal Human Capital)と、それを確保するための「必要な人的資本投資(Necessary Investments in Human Capital)」を明示し、その上で指標を位置づける手法だ [2]。改定指針はこの戦略重視型の考え方を明確に採用し、企業に対して指標の列挙ではなく、事業戦略と人材戦略が「なぜ・どうつながるか」を論理立てて説明するよう求めている。

指針自体は非拘束的なガイダンスであり、チェックリストやひな型としての利用は想定されていない [2]。ただし、有価証券報告書では2023年3月期以降、サステナビリティに関する「考え方及び取組」欄のうち「戦略」「指標及び目標」の記載が全上場企業に義務化されており、今回の指針はその記載の質を「指標の羅列」から「経営戦略との連動」へ引き上げることを狙いとする。

なぜ改定されたか

従来指針の限界

指針の旧版(Previous Version)も事業戦略と人的資本経営戦略の整合性の重要性自体は強調していたが、「具体的にどう整合させて開示するか」という方法論までは示していなかったとされる [2]。この結果、実務では女性管理職比率、男性育休取得率、男女賃金格差といった法定必須項目や、従業員数・人件費・離職率・エンゲージメントスコアといった比較可能指標を機械的に列挙するだけの開示が広がった。数値自体は開示されても、それが自社の事業戦略上なぜ重要で、どのような経営上の意味を持つのかという説明が欠落するケースが目立っていたと整理されている。

この「指標重視型」開示の限界は、企業が置かれた競争環境や事業モデルの多様化とも関係する。同業種であっても収益構造や必要人材が異なる中、比較可能性を重視した共通指標だけでは、投資家が各社の人材戦略の巧拙を判断する材料として不十分になっていた [2]。

投資家側の不満

金融庁の委託によりボストン コンサルティング グループが2025年4月にまとめた調査は、グローバル投資家の視点を具体的に整理している。投資家は「比較可能性を過度に重視すると、企業固有の開示がかえって損なわれる」と懸念を示し、企業固有の指標を用いる場合でも、(1)その指標を重要と考える理由、(2)人的資本経営戦略との整合性、(3)進捗を評価できる時系列データ、(4)当期の財務諸表との関係性、の四点をあわせて開示するよう期待していると報告されている [3]。

英国の機関投資家団体Investment Associationは、従業員数・離職率・研修投資・エンゲージメントスコアといった比較可能指標と、生産性向上に資する投資や人的資本関連のリスク・機会といった企業固有の開示を組み合わせて求めるとされ、人的資本を重視するグローバル投資家グループHCMC(Human Capital Management Coalition)も同様に、比較可能指標と企業固有の戦略説明の両方を要求するとされる [3]。横並びの定量指標だけが並ぶ開示に対する不満は根強く、これが金融庁の指針改定の背景にある投資家側の声として位置づけられている。

こうした問題意識は人的資本分野に限らない。金融庁が2026年に進めるコーポレートガバナンス・コード改定の意見公募(2026年5月15日締切)も、「コンプライ・オア・エクスプレイン」原則が形骸化し、紋切り型・横並びの説明に陥っている状況を是正する狙いを含むとされ [4]、コーポレートガバナンス・コード改定第2弾の要点で論じられる形式的開示への問題意識と軌を一にする。

誰が影響を受けるか

上場企業の開示実務への影響

改定指針の下で企業に求められるのは、まず自社の事業戦略の実現に必要な「最適人的資本像」を描き、それを確保するための投資を特定する作業だ。生成AIの普及や人口減少による事業環境の変化を踏まえ、将来必要となる人材ポートフォリオをできる限り具体的に記述することが指針の柱とされている [2]。その上で、人的資本関連の目標の達成時期を、経営戦略上の達成時期と整合させることが投資家から期待されているとされる [2]。

事業セグメントや地域によって必要な人材戦略が異なる場合には、連結ベースの平均的な記載だけでは実態が見えにくくなるため、重要性に応じてセグメント別・地域別の開示を検討することも指針は求めている [2]。加えて、財務諸表上の人件費と、指針が定義する「必要な人的資本投資」との関係性(コネクティビティ)を説明することも要素として挙げられている。これは、人事部門だけでなく財務・経理部門を含めた横断的な開示体制の構築を迫るものであり、財務責任者が非財務情報の統合に関与する流れとも重なる。

女性管理職比率や男女賃金格差といった既存の法定開示項目自体が撤廃されるわけではない。これらは今後も、経営戦略との整合性を語る「戦略連動型」開示の文脈の中に位置づけ直され、単独の数値としてではなく人的資本経営戦略の進捗を示す指標群の一部として説明することが求められる方向にあるとみられる。なお、女性活躍推進や男女賃金格差の開示義務化そのものの経緯と課題は人的資本開示義務の全貌で扱われており、本稿はその論点とは区別して、開示の「設計思想」の転換に焦点を当てる。

投資家・機関投資家の評価軸への影響

投資家側の評価軸も変化するとみられる。従来は開示項目の有無や指標の網羅性が評価の入り口だったが、戦略重視型の枠組みでは、開示された指標が経営戦略上の目標とどう結びつき、財務パフォーマンスにどう波及するかという論理的な説明の質そのものが評価対象になる。ISSBの定めるガバナンス・戦略・リスク管理・指標と目標という四要素に沿った開示は、気候関連開示で先行してきたTCFD・IFRS S2の枠組みと構造的に共通しており、投資家は人的資本についても同じ物差しで経営の説明責任を問う姿勢を強めるとみられる。

今後どうなるか

短期(数か月〜1年)の見通し

金融庁は2026年4月17日に、事業戦略と人的資本経営戦略の整合性に関する開示事例集も公表しており、今後の有価証券報告書作成において参照が進むとみられる [1]。並行してコーポレートガバナンス・コードの改定案は2026年5月15日まで意見公募に付され、7月頃の適用開始、遅くとも2027年7月までに改定後の内容を反映したコーポレートガバナンス報告書の提出が求められる見通しとされる [4]。今後1年程度は、企業が指針の考え方をどこまで有価証券報告書に落とし込めるかが問われる移行期になるとみられる。

SSBJ基準についても、2026年3月期から任意適用が可能となり、プライム市場の大規模企業を中心に2027年3月期以降の義務適用に向けた準備が進む段階にある。人的資本の開示は、この気候関連を含むサステナビリティ開示全体の適用スケジュールとも連動して進むとみられる。

中長期(1〜3年)の構造変化

より長い時間軸では、ISSB自身が人的資本に関する独立したトピック基準の策定を検討している。ISSBは2024年から人的資本に関するリサーチプロジェクトを進めており、2026年6月には基準策定の是非を判断するための検討会合が予定されているとされ、正式な基準は早くて2027年以降になるとの見方が示されている [5]。現時点でISSB基準・SSBJ基準のいずれも人的資本に特化した個別の開示要求を定めておらず、IFRS S1の一般規定を援用する形にとどまっている [5]。

日本の指針改定は、この国際的な基準整備が固まる前に、先行して「戦略連動」という設計思想を企業実務に根づかせようとする動きとも解釈できる。SSBJはISSB基準との整合を基本方針としており [6]、将来的にISSBが人的資本トピック基準を確定させれば、日本の指針・基準もこれに合わせて改定される可能性が高い。中長期的には、有価証券報告書上の人的資本記載が、気候関連開示と同様に国際的な比較可能性と企業固有の戦略説明性を両立させる方向に収斂していくとみられる。欧州のCSRD・CS3Dが求める人的資本を含む社会情報の開示範囲とも接続点が生まれつつあり、EUのCSRD・CS3Dが日本企業に及ぼす影響で論じられる域外適用の論点とあわせて、国際的な開示基準の収斂という文脈で捉える視点が有効になる。

Newscoda の見方

Newscodaとしては、今回の指針改定が持つ意味を「開示項目の追加」ではなく「開示の評価軸そのものの転換」と捉える。指標の網羅性を競う開示競争は、企業に作業負荷を課す割に投資家の意思決定に資する情報を増やしてこなかったという反省が、金融庁の資料からも読み取れる。戦略連動という設計思想への転換は、有価証券報告書を「規制遵守の書類」から「経営の論理を語る文書」へ位置づけ直す試みと考えられる。

他の論評の多くが個別指標の追加・削除に注目しがちな中、本サイトは開示の「型」自体が指標重視型から戦略重視型へ切り替わったという構造変化に焦点を当てる点で視点を異にする。この転換は人事部門だけの課題ではなく、財務・経営企画・IR部門を横断する体制整備を要求するものであり、対応の巧拙が今後の開示評価の差につながりやすい。

今後6〜12か月で観察すべき変数:

  • 2027年3月期に向けた有価証券報告書での「戦略重視型」開示の採用状況と、業種・企業規模による差
  • コーポレートガバナンス・コード改定の最終決定内容と、人的資本関連の記載への反映度合い
  • ISSBの人的資本トピック基準に関する2026年6月以降の検討状況と、SSBJ基準への反映時期
  • 機関投資家・議決権行使助言会社が人的資本開示の「戦略との整合性」を議決権行使基準に組み込むかどうか

まとめ

金融庁は2026年3月、内閣官房・経済産業省と共同で人的資本開示指針を改定し、「指標重視型」から「戦略重視型」への転換を明確に打ち出した。従来の指針が比較可能な指標の列挙にとどまりがちだった限界と、企業固有の戦略との結びつきを求める投資家側の不満が、改定の背景にある。指針はISSBが定める四つの構成要素に沿いつつ、企業に「最適人的資本像」と「必要な人的資本投資」を軸とした説明を求めており、有価証券報告書における人的資本・多様性関連の記載を、単なる法定項目の列挙から経営戦略の一部として語る文書へ再構成することを促している。

短期的にはコーポレートガバナンス・コード改定やSSBJ基準の適用スケジュールと足並みを揃えながら実務対応が進み、中長期的にはISSBによる人的資本トピック基準の策定動向が、日本の開示実務の到達点を規定していくとみられる。開示の「量」から「論理の質」への移行が実際に投資家の評価行動を変えるかどうかが、今後の焦点となる。

Sources

  1. [1]Human Capital Disclosures ― Financial Services Agency of Japan
  2. [2]Strategy-Focused Human Capital Disclosures: The Approach to Meet Investor Expectations ― Cabinet Secretariat, FSA, METI (23 March 2026)
  3. [3]Study on Global Investors' Focus Areas Regarding Human Capital Disclosure and Corporate Case Studies ― Boston Consulting Group GK, commissioned by FSA (April 2025)
  4. [4]Draft revisions to the Corporate Governance Code for public consultation ― Financial Services Agency
  5. [5]Human Capital ― IFRS Foundation / International Sustainability Standards Board Work Plan
  6. [6]Jurisdictional Snapshot: Japan ― IFRS Foundation

よくある質問

金融庁が示す「戦略連動型」の人的資本開示とは、従来の開示と比べて具体的に何が異なるのか
従業員数や離職率など定型化された指標を並べる「指標開示型」に対し、自社の事業戦略の達成に必要な人材像(最適人的資本像)と、それを確保するための投資を明示し、経営戦略と人材戦略のつながりを説明する開示手法を指すとされる。
今回の指針改定を受けて、有価証券報告書の人的資本関連の記載はどのように変わるとみられるか
女性管理職比率や男性育休取得率など既存の必須項目に加え、事業戦略と人的資本戦略の整合性、指標が示す進捗、財務諸表上の人件費との関係性を一体的に記述することが求められる方向に指針が改定されたとされる。
人的資本開示におけるISSB基準との整合性拡充とは、具体的にどのような対応を意味するのか
金融庁の指針がISSBの定めるガバナンス・戦略・リスク管理・指標と目標という四つの構成要素に沿った開示の枠組みを示し、SSBJが策定する日本版基準ともあわせて国際的に比較可能な開示体系への接続を図ることを意味するとされる。
中小型の上場企業も大企業と同様の戦略連動型の開示対応を求められることになるのか
指針自体は非拘束的な原則ベースの手引きであり画一的なチェックリストではないとされるが、有価証券報告書における人的資本記載自体は規模を問わず全上場企業が対象であり、開示の深度は企業の裁量に委ねられる部分が大きいとされる。
従来の指標中心の人的資本開示に対して、投資家側はどのような不満を示してきたのか
比較可能な共通指標だけでは経営戦略との関係が見えないとの不満が根強く、企業固有の指標であっても、なぜ重要かという理由や時系列の進捗、財務数値との接続を伴う説明を求める声が投資家側から示されているとされる。

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