選択的夫婦別姓から旧姓法制化へ ― 高市政権が塗り替えた争点の時系列
1996年の法制審議会答申から2025年の28年ぶり国会審議、高市政権による旧姓通称使用への方針転換、2026年通常国会での法案不提出までを時系列で整理し、経済界の関心と今後の争点を検証する。
背景
出発点となった状況
日本の民法750条は、婚姻に際して夫婦のいずれかの氏を称することを定めており、事実上96%近くの夫婦が夫の氏を選択している[6]。最高裁判所大法廷は2015年に続き2021年6月23日にも、この規定を合憲と判断した。ただし15人の裁判官のうち4人が違憲との反対意見を述べており、法廷は判決文の中で「この種の制度の在り方は国会で論ぜられ、判断されるべき事柄である」と、立法府への判断の委譲を明示した[2]。司法が繰り返し立法府にボールを投げ返してきたことが、この論争を長期化させてきた構造的要因である。
制度改正の議論自体は新しいものではない。法務省の法制審議会は1996年2月、選択的夫婦別氏制度の導入を含む「民法の一部を改正する法律案要綱」を答申した。しかし法務省は1996年と2010年の二度にわたり改正法案を準備しながら、国民の間の意見の隔たりを理由にいずれも国会へ提出しなかった[1]。法制審議会の答申から国会提出見送りまでの経緯がすでに一つの「先送りの時系列」を形成しており、2025年以降の展開はこの長い停滞に対する一つの転機として位置づけられる。
この間、国会に提出されないまま法案が準備された事実自体が象徴的である。行政府は制度設計の技術的な検討を二度終えていながら、それを政治日程に乗せる意思決定を二度とも見送った。つまり論争の停滞は、制度設計上の困難というより、与党内の合意形成という政治的な壁に起因してきたと整理できる。この構図は2025年以降も基本的に変わっていない。
構造的な前提
論争の構図は単純な賛否二元論ではない。立憲民主党・国民民主党など野党は、夫婦がそれぞれ婚姻前の氏を法律上の氏として選べる「選択的夫婦別姓制度」の導入を求める。これに対し自由民主党の保守系議員や日本維新の会の一部は、戸籍制度上の「一つの氏」原則を維持したまま、旧姓(旧氏)を社会生活のあらゆる場面で通称として使えるようにする「旧姓の法制化」を代替案として主張してきた。両者は「氏の選択肢を増やす」という目的意識では重なるが、戸籍という制度の根幹に手を付けるか否かで明確に分岐する。
経済界は独自の立場から発言力を強めてきた。日本経済団体連合会は2024年6月18日、選択的夫婦別姓制度の早期実現を求める提言を公表し、2025年5月7日に改訂した。提言に添付された企業アンケートでは、女性役員・管理職が旧姓を通称として使う際、海外渡航や口座開設、契約手続きで支障が生じている実態が示されている[4]。人材の獲得競争が激化するなかで、氏の制度は単なる家族制度の論点ではなく、人的資本活用上の実務的コストとして経営課題化した。この経済界の突き上げが、2025年以降の国会審議を後押しする一因となった。
内閣府男女共同参画局が公表する統計でも、婚姻届の96%前後が夫の氏を選択する構造は1990年代半ばからほとんど変わっていない[6]。夫の氏を選ぶ割合は1995年時点で97.4%、2024年時点でも94.1%とわずかな低下にとどまり、20〜30年の時間軸で見ても構造そのものはほぼ固定的である。旧姓の通称使用が拡大しても、法律上の氏が変わる主体はほぼ一貫して女性側に偏る現実は変わらず、この非対称性こそが経済界の危機感の根底にある。
2025年5月: 28年ぶりの国会審議入り
2025年4月30日、衆院で少数与党となった自民党・公明党連立政権のもとで、立憲民主党が選択的夫婦別姓制度の導入を柱とする民法改正案を衆議院に提出した。国民民主党も同種の改正案を、日本維新の会は戸籍上の氏は統一したまま旧姓の通称使用に法的根拠を持たせる独自案をそれぞれ提出し、5月28日の衆院法務委員会でこれら複数の法案が審議入りした[3]。選択的夫婦別姓を巡る民法改正案が国会で実質審議されるのは1996年の法制審議会答申以来、事実上初めてのことであり、与党が少数与党に転落したことで、野党提出法案が単なる「棚上げ」で終わらない政治力学が生まれた点が特徴だった。
もっとも審議は6月に入っても結論に至らず、自民党は選択的夫婦別姓制度の是非について「今国会中の結論は困難」との立場を野党側に伝えた。長年の慣行どおり、結論は次の国会に持ち越された。この局面の意味は、審議入り自体が28年ぶりの制度的突破口であった一方、結論を出す政治的意思はなお存在しなかったという二重性にある。
衆院法務委員会の会議録を確認すると、審議では家族制度への影響、戸籍実務上の技術的課題、旧姓使用と国際的な身分証明との整合性など、多角的な論点が取り上げられている[3]。単一の争点ではなく複数の実務的懸念が並行して提起されたこと自体が、結論を一本化しにくくした一因といえる。この段階ではまだ、旧姓法制化という代替案は政府の公式方針としては前面に出ていなかった。
2025年10月〜12月: 高市政権による争点の組み替え
2025年10月、自民党総裁選を経て高市早苗氏が首相に就任した。選択的夫婦別姓制度の導入に前向きとされてきた公明党が連立から離脱し、自民党は日本維新の会と新たに連立を組んだ。この政権交代は、氏を巡る論争の力学を大きく変えた。高市首相はかねて夫婦同氏制の堅持を支持する保守的立場をとっており、政権発足後は選択的夫婦別姓ではなく旧姓の通称使用の拡大を優先する姿勢を明確にした[7]。
自民党と日本維新の会の連立合意は、戸籍制度上の氏の統一原則を維持しながら、社会生活のあらゆる場面で旧姓使用に法的効力を与える制度の創設を掲げるものとなり、選択的夫婦別姓制度そのものよりも旧姓の法的効力付与を優先する方針が明確になった[7]。これは選択的夫婦別姓制度の実現を事実上後景に退かせ、「旧姓の法的効力付与」という代替案に争点を一本化する方針転換である。
12月にかけては、この方針転換を第6次男女共同参画基本計画にどう書き込むかを巡って政府・与党内の調整が続いた。当初は2025年内の策定が想定されていたが、実際の閣議決定は2026年3月にずれ込んでおり、方針の文言調整に一定の時間を要したことがうかがえる[5]。一橋大学大学院法学研究科の市原麻衣子教授は、この経緯について、旧姓法制化が実現しても「家族の絆を損なう」という慣例的な反対論の前提自体が、家族構成員がすでに異なる氏を日常的に使用している実態と整合しないと指摘している[7]。
2026年3月: 基本計画の閣議決定と論点の固定化
第6次男女共同参画基本計画は当初想定されていた2025年内の策定から遅れ、2026年3月13日に閣議決定された[5]。計画は仕事と生活の両立、政策決定過程への女性参画、女性の所得向上など8つの重点分野で構成され、旧姓使用の拡大とその周知に取り組む方針、社会生活のあらゆる場面で旧氏使用に法的効力を与える制度創設の検討を含む基盤整備の検討が盛り込まれた。一方で、選択的夫婦別姓制度の導入自体については、基本計画上の位置づけが後退したとの見方が識者の間で示されている[7]。
この閣議決定によって、政府の政策上の優先順位は「旧姓の法的効力付与」に事実上一本化された。1996年の法制審議会答申以来続いてきた「選択的夫婦別姓か現状維持か」という二項対立の構図は、「旧姓の通称使用をどこまで法的に強化するか」という、より限定された論点へと置き換えられたことになる。この転換は、制度改正を求めてきた側にとっては前進とも後退とも評価が割れる、両義的な到達点である。
現行制度でも、旅券・運転免許証・マイナンバーカードなど一部の公的書類では、婚姻後の氏に括弧書きで旧姓を併記することがすでに認められている。一方で、資格・免許や口座名義、契約書式など制度ごとに旧姓の取り扱いは大きくばらついており、経団連のアンケートが指摘した実務上の不便は解消されていない[4]。今回の基本計画は、こうした分野横断的な不整合をどこまで解消できるかという、より技術的な論点に焦点を移した形になる。
直近の動き
2026年2月8日の衆院選で、自民党は公示前から118議席を積み増し、日本維新の会との連立で衆院の3分の2を超える議席を獲得する歴史的な勝利を収めた[9]。与党の議席基盤はかつてなく強固になった一方、この勢力拡大が氏を巡る法整備の加速に直結したわけではない。2026年2月18日から7月17日まで開かれた第221回通常国会の議案一覧を確認すると、旧姓の通称使用を法制化する法律案、選択的夫婦別姓制度に関する民法改正案のいずれも、この国会には提出されていない[8]。連立政権合意書が掲げていた「26年通常国会への法案提出」という当初の目標は、この会期では実現しなかったことになる。
8月1日時点で、旧姓の通称使用を法制化する法案・選択的夫婦別姓制度を求める法案とも国会に提出されないままである。1996年の法制審議会答申から数えて30年、2025年5月の28年ぶり審議入りから1年余りが経過してもなお、制度は次の国会での取り扱いを待つ「検討中」の状態にとどまっている。
今後の展望
今後の焦点は大きく三つに整理できる。第一に、旧姓法制化法案が次の国会でどのような内容で提出されるかである。単記(旧姓のみの単独表記)まで認めるのか、婚姻後の氏に併記する形にとどめるのかによって、実務上の効果は大きく異なる。第二に、経済界がどこまで圧力を維持するかである。経団連はすでに旧姓の通称使用拡大だけでは国際的な誤解や不正利用の疑いといった問題を解決できないとして、選択的夫婦別姓制度そのものの導入を改めて求めており、経済界と政府の方針には隔たりが残る[4]。第三に、最高裁判所の今後の判断余地である。2021年決定でも4人の裁判官が違憲との反対意見を述べており、家族制度を巡る社会意識の変化が今後の司法判断にどう影響するかは不透明である。
これら三つの変数は互いに独立しているわけではない。旧姓法制化法案の内容が実務的な不便の解消に届かない中身にとどまれば、経済界は選択的夫婦別姓制度の要求を再び強め、それが新たな違憲訴訟や司法判断への呼び水になる、という循環も想定できる。逆に、旧姓の法的効力を広範に認める制度設計が実現すれば、選択的夫婦別姓を求める圧力自体が一定程度和らぐ可能性もある。どちらの経路をたどるかは、次期国会に提出される法案の具体的な条文設計に大きく左右される。
なお、旧姓法制化を巡る国会日程の逼迫は、解雇の金銭解決制度を巡る労働市場改革のように、他の重要法案との優先順位争いという形で他の政策領域にも共通する構造であり、限られた国会会期の中で複数の制度改革が競合する状況が今後も続くとみられる。家族・労働に関わる制度改正が「審議入りはするが結論が出ない」まま複数年にわたって滞留する現象は、男性育休の取得率向上を巡る議論とも共通しており、制度と実態の間の「壁」がどこにあるかを見極める視点は他の家族・労働政策の分析にも応用できる。
Newscoda の見方
Newscodaとしては、この論争の本質を「賛成か反対か」という価値観の対立としてではなく、企業の人材戦略と国の立法プロセスの間に生じている時間差の問題として捉える。経団連の提言や人的資本開示を巡る制度整備が示すとおり、女性の継続的なキャリア形成を前提とした人的資本活用は経営上の既定路線になりつつある一方、それを支える法制度の整備は1996年の答申から数えて30年近く足踏みを続けている。この乖離こそが、経営層・投資家にとって注視すべき構造的リスクである。
他の解説と異なり、本稿は「選択的夫婦別姓か旧姓法制化か」という制度選択の優劣を論じることを目的としていない。むしろ、政権交代のたびに争点そのものが組み替えられ、結論が先送りされ続けるプロセス自体を時系列で可視化することに主眼を置いた。制度の是非を巡る世論の分布以上に、国会日程・連立政権の構成・経済界の圧力という三つの変数が結論を左右してきたことが、この30年の経緯から読み取れる。
今後6〜12か月で観察すべき変数は以下のとおりである。
- 旧姓法制化法案が次期国会(臨時国会または2027年通常国会)に実際に提出されるか、その内容が「単記」まで認めるものか
- 経団連・経済同友会など経済界が選択的夫婦別姓制度の要求を維持・強化するか、旧姓法制化で一定の妥協に転じるか
- 最高裁判所に新たな違憲訴訟が提起され、司法判断の枠組みに変化が生じるか
- 与党内保守系議員連盟の反発が法案内容にどこまで反映されるか
まとめ
夫婦の氏を巡る制度論争は、1996年の法制審議会答申から2025年5月の28年ぶり国会審議入り、高市政権発足による争点の組み替え、2026年3月の第6次男女共同参画基本計画の閣議決定、そして同年2月から7月にかけての第221回通常国会での法案不提出という時系列をたどってきた。選択的夫婦別姓制度の導入という当初の論点は、政権交代を経て「旧姓の法的効力付与」という限定的な代替案へと縮小され、それすらも実際の国会提出には至っていない。経済界からの実務的な要請と、保守層を含む政治的な慎重論との間で、この制度改正がどのタイミングでどのような形に着地するのかは、日本企業の人材戦略にも波及する論点として、今後も時系列で追う価値がある。
Sources
- [1]選択的夫婦別氏制度(いわゆる選択的夫婦別姓制度)について — 法務省
- [2]令和2年(ク)第102号 市町村長処分不服申立て却下審判に対する抗告棄却決定に対する特別抗告事件(令和3年6月23日大法廷決定)— 裁判所
- [3]第217回国会 衆議院法務委員会 第17号(令和7年5月28日)会議録 — 衆議院
- [4]選択肢のある社会の実現を目指して ― 選択的夫婦別姓制度の早期実現を求める — 日本経済団体連合会
- [5]第6次男女共同参画基本計画(令和8年3月13日閣議決定)— 内閣府男女共同参画局
- [6]夫婦の氏に関する統計資料 — 内閣府男女共同参画局
- [7]Comment on 'Takaichi Government Elevates Maiden-Name Reform, Leaving Selective Married Surnames Behind' — Institute for Global Governance Research, Hitotsubashi University
- [8]第221回国会 議案の一覧 — 衆議院
- [9]Japan Election 2026: Takaichi's Historic Win Explained in Maps, Charts — Bloomberg
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